海斗と買物に出かけたある日、スーパーの一角にはすっかりとお正月商品はなくなり、代わりにカラフルで目を引くたくさんのチョコがズラリと並んでいた。「そっか、もうそんな季節かぁ」「さらねえちゃん、チョコほしーい」海斗が目をキラキラさせながら商品棚に駆け寄る。子ども向けのキャラクターが付いたチョコに釘付けだ。「じゃあバレンタインだから一個買ってあげるね」「ばえんたいんってなに?」「好きな人とかいつもお世話になってる人に、ありがとうってチョコを渡す日だよ」「かいともわたしたい!」「誰に渡したいの?」「さらねえちゃん!」まっすぐな瞳で見つめられ、胸がきゅんとなる。海斗の素直な気持ちが嬉しくて紗良は目頭が熱くなり、そっと海斗の頭を撫でる。いつの間にこんな気の利いたことを言うようになったのだろうか。「ありがとね、その気持ちで十分よ」「えー。あげたいのにー。あ! あとせんせーにもあげたい」「本当に海斗は滝本先生が好きよね」「うん、だいすき。さらねえちゃんもせんせーのこと、すきでしょ?」「え、う、うん」別に深い意味はないのだというのに、そんなことを言われたら胸がざわっと揺れる。いちいち動揺してしまうなんて、どうかしている。紗良は思わず熱を帯びそうになった頬を慌てて両手で押さえた。「じゃあ、さらねえちゃんもわたしたら?」「そう……よね?」紗良は商品をぐるりと見渡す。杏介は甘いものが好きだったかどうだったか。よくわからないけれど、とりあえず小さめのチョコを買っておくことにした。(そう、これは海斗が杏介さんに渡したいって言ったから。 だから買ったのよ。 いつもありがとうございますって感謝の気持ちなんだから)などと自分自身に言い訳をして。杏介には「好き」だと伝えているのだから、別に堂々と渡せばいいだけのはずなのに、どうにも恥ずかしい気持ちが先行してしまい自分の気持ちがついて行かない。(……バイトのとき、渡せたらいいな)そんな淡い希望を抱いて、チョコをそっとカバンに忍ばせた。
土曜日のプール教室は他の曜日に比べて生徒数が多く、レッスン数も多い。 故に、杏介たちインストラクターはレッスン修了後の事務所にてそれぞれがだらりと休憩をしていた。杏介がコーヒーを飲みながら物思いに耽っていると、同じくコーヒーを飲みながら航太がニヤニヤと隣に座る。「杏介、今年も何個かもらったんだろ、チョコ」その言葉に即座に反応したのはおしゃべり好きなリカだ。「えっ。 もしかしてママたちからですか?」「いや、子供から。 断りたいけど、子供から手渡しされるとさすがにもらうしかないんだよね」「へぇ~、滝本先輩モテモテですね」「どうせ子どもにかこつけてママたちからも何個か入ってるんだろ?」「うわー、マジですか。さすがイケメンは違いますねー」リカは大げさに驚きチラリと航太を見る。「……リカちゃん、今俺のこと可哀そうな目で見ただろ」「あ、バレました? 小野先輩かわいそー。もらえないなんてー」「そう思うなら俺にくれよぉ」「私がですか? 嫌ですよ。滝本先輩にならあげてもいいけど」「何だとっ! もう少し俺を労わってくれよ。杏介も何か言ってくれ」「あー、うん、二人とも仲いいよね」「「仲良くないっ!」」杏介の嫌みのないツッコミに、航太とリカの叫びがハモる。 バツの悪くなった航太はコホンと咳払いをして話題を変えた。
「ああ、そんなことより杏介は本命の彼女からちゃんともらったのか?」「えっ、先輩、彼女いるんですか?」「え、ああ、いや、まあ……」「いるんだなー。しかも子持ち」「やだっ不倫?」「違う違う」「じゃあバツイチ?」杏介が口を挟む間もなく、航太とリカは盛り上がる。航太とは日頃からお互いに何でも話すような仲ではあるが、まさかリカに対してもベラベラしゃべるやつだったとは、杏介は苦笑いだ。「未婚の母なんだよな? 杏介も物好きだよなー」「そうかな? 好きになった人にたまたま子供がいただけで――」と弁明を図ろうとしたのだが、険しい顔をしたリカがずずいと詰め寄る。「先輩、その考えは危険ですって。先輩まだ若いんだから子持ちなんてリスク背負わない方がいいですよ。自分の子じゃないのに愛せますか? 彼女が好きだから愛せるって思うかもしれないけど、恋愛期間は盲目になってるだけかもしれないですよ。ぜったい考え直した方がいいですよ。現実見てください」「……リカちゃんがまともなこと言ってる」「私はいつもまともです。小野先輩は茶化さないでください。その彼女、滝本先輩に子供のお父さんになってほしいだけじゃないです? あと経済的支援目的とか」「いや、そんなことはないと思うけど」と言いつつも、ダブルワークしている紗良はもしかして経済的に安定していないのかもしれない。だからといって杏介に対して経済的支援を求めているようには感じられないが。「とにかく、先輩早まっちゃダメです」「ありがとう、心しておくよ」リカの剣幕にとりあえずは頷いておく。決して紗良がそんなことを考えているとは思いたくない。というか、まったく思えない。「ずいぶん熱心だけど、もしかしてリカちゃん杏介のこと好きなんじゃ……」「バカなんですか、小野先輩」「ちょ、俺への当たりきつくない?」「まあ、自業自得なんじゃないか?」デリカシーのない航太にフォローなどいらないだろうと、杏介もリカ同様冷たく突き放す。「二人してひどいー」と泣き真似までする航太にリカはまたツッコミを入れ、なんだかんだ仲が良いなと杏介は一人笑った。
紗良はカバンに突っ込んだまま息を潜めているチョコの存在を気にして、一日中ソワソワしていた。土曜日の海斗のプール教室、渡す暇などないだろうし、渡す機会があったとしてもさすがに人が多すぎて目立ってしまうと考えつつも、チョコはカバンの中。結局いつも通りレッスンが終了して、何人かの子供が「滝本先生~」と甘い声をかけているのを横目にそそくさと帰ってしまった。(あんなところで渡せるわけないじゃない)しかも、子供とはいえ女子たちの乙女な顔ときたら、きっとチョコを渡す子もいるんだろうなと想像して知らず知らずモヤッとしてしまって見ていられなかった。まさか小学生に嫉妬してしまうなんて……。(どうかしてるわ、私)紗良は深いため息をつく。やはりタイミングはアルバイト時かと思いつつ、何をそんなにも緊張することがあるのだと自分を落ち着かせる。学生の時だってこんなにドキドキしたことがあっただろうか。 過去の自分を振り返ってみても、小学生のときに先生にチョコを渡した記憶しかよみがえってこない。 確かにあの時も相当ドキドキしていたけれど。 そんな記憶は遠い彼方だ。結局心が落ち着くことはなく、ソワソワしたままアルバイトに出掛けたのだった。
最近の杏介は、毎週とはいかないまでも、土曜の夜まで仕事がある日は必ず紗良の働くラーメン店へ出向いていた。その頻度は前とさほど変わらないけれど、紗良の仕事終わりに隣のコンビニで待ち合わせをして、少しだけおしゃべりをして別れるというのがいつの間にか日課になっている。「杏介さん、これ……あげますっ」満を持してカバンから取り出したチョコはぶっきらぼうに杏介の目の前へ差し出され、紗良は不自然に視線を泳がす。「……もしかしてバレンタイン?」「うん。……海斗がぜひにとも」「えっ? 海斗から?」「……いや、えっと、私から……です。迷惑じゃなかったら……」変に語尾がごにょごにょと小さくなっていく。紗良のあまりの照れように、杏介まで照れくさくなって頬を掻いた。昼間プール教室で散々生徒からチョコを貰ったが、比べものにならないくらいに嬉しい。「迷惑だなんて思うわけないだろ。ありがとう。じゃあ、ホワイトデーにはどこかデートでもしようか?」「あ、お返しなんてお構いなく、なんだけど……。うん、デートしたい……です」「どこか行きたいところある? 何か買いたいものとか」「うーん、そうだなぁ。海斗が四月から年長さんだから、新しいスモックと上靴と、あとTシャツを買いに行きたい」「紗良、それってデートなの?」「はっ!」「紗良って時々天然だよね。面白い」「いや、ごめんなさい。そうだよね、デート、デート、……デートかぁ」「いいよ、ショッピングもデートのうちだろ。どこでも付き合うよ」くっくと笑う杏介は優しく紗良の頭を撫でる。その柔らかな手つきも紗良に向ける笑顔も、すべてが愛おしく思えて胸がぎゅっとなった。
四月、海斗は年長へ進級し、プール教室もクラス替えになった。 顔付けや潜ることができるようになった海斗はひとつ上のクラスになり、担当の先生も新しくなった。海斗は担当の先生が杏介でなくなり残念そうにしていたが、子供の順応性とは高いものですぐに馴染んで楽しそうにしている。そのことについて全く問題はないというのに、なぜだか紗良の方が残念な気持ちになっている。心のどこかで海斗は杏介じゃないとだめだと思っていたのだろうか? それとも海斗をダシに杏介に近づこうと思っていたのだろうか?いずれにせよ、妙な喪失感に襲われている。きっとこれは四月だから。 年度がかわっていろいろなことに忙しいから。 だから心が弱くなっているのだと、紗良は無理やり結論づけた。そうやって慌ただしく四月が過ぎていき、あっという間にゴールデンウィークになった。休みの日は杏介に会いたいなと思っていた紗良だが、どうやら短期プール教室があるらしく杏介は出勤の日々の様子。「一日くらいどこか行こうか?」「でも杏介さんはその日しかお休みないんでしょう? お出かけしたら疲れちゃうよ」「紗良と海斗に会えるなら疲れも吹き飛ぶよ」「海斗、ますますわんぱくになってるから相手するの大変だよ」「だったら毎日海斗の相手してる紗良こそ、少しはゆっくりしないと。というわけで、お出かけ決定な」そうやって少々強引に予定が決まっていく。 甘やかされている気がして、嬉しい気持ちが大きく膨らんでいくようだ。(海斗よりも喜んでいるんじゃないだろうか、私)張り切って朝からおにぎりを握り、卵焼きとタコさんウインナーとほうれん草のおひたしをこしらえる。デザートにはパイナップルに可愛いピックを刺して。それらをしっかりとリュックに詰め込んで。「あらあら、朝から張り切ってるわねぇ」紗良の張り切り具合に母がニヤニヤと覗きに来る。「か、海斗がタコさんウインナー好きだから」「はいはい、杏介くん喜んでくれるといいわね」「うっ……うん」なにもかもお見通しのようで妙に気恥ずかしい。 言い訳をすればしただけ、自分の首を絞めるようだ。
杏介のお迎えに、海斗はジュニアシート持参で意気揚々と助手席に乗り込む。海斗はいつも助手席に乗りたがり杏介も快く受け入れている。そんな二人のやり取りを、紗良はぼんやりと後部座席から眺める。今まではそれがとても好きだったし、それでいいよと思っていた。それなのに、最近紗良と杏介二人で出かけることが増えたせいか、紗良も助手席に座りたいと海斗に対抗心が芽生えていることに気付いてそわそわと落ち着かなくなっている。(こんなの大人げないわ)そう、頭ではわかっているのだ。「海斗、この席は順番だぞ。行きは海斗が座ってもいいけど帰りは紗良姉ちゃんと交代な。わかったか?」「わかったー!」まるで紗良の心を見透かしたかのようでドキリとする。杏介は上手く海斗を説得するが、海斗は本当にわかっているのかどうなのか、空返事だ。けれどこうやって配慮してくれることが嬉しくて、いつの間にか紗良の心は落ち着いている。一喜一憂してしまう自分はなんて単純なのだろうと、紗良は人知れず笑った。やってきた動物園はウサギの餌やり、モルモットの餌やり、鯉の餌やり、と様々な体験ができる施設だ。餌を手にした海斗は目をキラキラさせて夢中になった。小さな動物は口も小さくモシャモシャと食べる姿が可愛らしい。海斗もモルモットを膝の上にのせてご機嫌だ。「さらねえちゃん、うまがいるー! みてー!」「わ、ほんとだ……きゃっ」ブルルンと鳴いて今にも柵から飛び出してきそうな勢いの馬たち。海斗は意気揚々とニンジンを手に持って餌やりする気満々だ。海斗がそっと手を出すと、ぎょろりとした目をした馬が興奮気味に口を開ける。ベロンとニンジンが持っていかれ、海斗はきょとんとした後なにが可笑しかったのか大笑いし始めた。「あはは! おもしろーい! さらねえちゃんもやってみて!」「いや、お姉ちゃんは無理だから」「えーなんでー」と海斗とやり取りをしている間に、右手にかかるあたたかい何か。嫌な予感がしてギギギと首を捻ってみれば、至近距離に馬の顔があり今にも紗良の手を舐める勢いだ。「ひっ、ひぃぃぃぃ――」卒倒しそうになる紗良を杏介が慌てて受け止める。「おっと!」「さらねえちゃん、しなないでー!」海斗が冗談なのか本気なのかよくわからない煽り方をして、理不尽にもあとでこっぴどく叱られたのだった。
動物園には芝生の広場もあり、たくさんの家族連れで賑わっている。紗良たちもまわりに植えられている木の影を狙って持ってきたレジャーシートを敷いた。 ちょっとした秘密基地のようで海斗のテンションも高くなる。持ってきた水筒のお茶をグビグビと飲んでからリュックをあさり出した。「まさか紗良があんなにも馬がだめだなんて知らなかったな」「実は動物も虫も苦手なの」「じゃあ動物園は嫌だった?」「ううん。檻に入っていれば大丈夫だし。海斗が楽しそうだからそれでいいよ。でもさすがに馬はきつかったかな。さ、お弁当にしよ」「お弁当作ってきてくれたんだ?」「大したものじゃないけど。杏介さん嫌いな食べ物なかった?」「ないよ。何でも食べる」ドキドキと緊張しながらお弁当箱を取り出すと横から海斗が「はやくはやくー」と急かす。 蓋を開ければお弁当独特の柔らかいにおいがふわっと香った。「やったー! タコさんウインナー!」「こら海斗! いただきますは? あっ、ほら、ほうれん草も食べなきゃダメよ。……杏介さんどうかした?」お弁当を見てじっと固まってしまった杏介に、紗良は恐る恐る尋ねる。 もしかして手作り弁当は迷惑だったのかもと心配になったのだが、どうやらそうではないようだ。「いや、なんか感動っていうのかな。タコさんウインナー初めて見たから。こんな感じなんだ……と思って」「せんせー、タコさんウインナーすき? さらねえちゃん、カニさんウインナーもつくれるよ。あとおはな」「そうなんだ、それはすごいな」「えっ! ただ切れ目入れるだけなんだけど。簡単すぎて恥ずかしいなー」「いや、すごいよ」「海斗が喜ぶかなって練習したの。保育園たまにお弁当の日あるし」「海斗は幸せ者だな」「そうかな? そうだといいけど」杏介はタコさんウインナーをまじまじと眺めてから大事そうにひとつ口に入れた。 ひと噛みひと噛み噛みしめると、じゅわっと肉の味が広がっていく。 素材は普通のウインナーと変わりないというのに特別に美味しく感じるようだ。「うん、美味い!」「……ありがとう」パクパク食べる海斗と杏介の姿を見ているだけで紗良は幸せで満たされていくようだった。
◇年も明け、紗良と杏介は婚姻届を提出するため役所を訪れていた。ドキドキとしながら書いた婚姻届は、あまりの緊張に二枚ほど書き損じてしまった。 年末には再び杏介の実家を訪れ、証人欄に名前を記入してもらった。 杏介の本籍は実家にあるため、そちらで戸籍謄本も取った。着々と準備が進むごとに結婚するんだという実感がじわじわとわいてくる。 そして今日という日を迎えた。「おめでとうございます」窓口に提出すると職員がにこやかに対応してくれる。 不備がないかなど確認し、滞りなく受理された。 案外あっけなく終わり紗良と杏介は時間を持て余したため、以前訪れたことのある公園まで足をのばした。まだ北風冷たく春になるにはもうしばらく先。 杏介は紗良の手を握り、自分のコートのポケットへ入れた。 吐く息は白いけれど、くっついていれば寒さなど感じないくらい手のひらからお互いのあたたかさを感じる。小高い丘の上にある展望台までのぼるとちょうど飛行機が通り抜けていった。 以前来たときはまわりの木々には緑の葉が生い茂っていて葉々を揺らしたが、今は冬のため枝がむき出しの状態だ。ところどころライトが付けてあることから、夜にはちょっとしたイルミネーションが見られるのだろう。「そういえば、本当に結婚式はしなくていいの?」「うん、だって家も建てるし海斗の卒園式もあるし、やってる暇なんてないよ。お金もないし」「紗良がいいならそれでいいけど……」杏介は顎に手を当ててうむむと考え込む。 あまりにも悩んだ表情をするため、紗良は自分の考えばかり押しつけていたのかもと思い焦る。「もしかして杏介さん、結婚式したかった?」「ああ、いや、そうじゃなくて、紗良のウェディングドレス姿を見てみたいと思っただけで。だって絶対可愛いし」「ええっ? そんなこと言ったら、杏介さんのタキシード姿だって絶対かっこいいよ」お互いにその姿を想像してふふっと笑う。
紗良は小さく首を横に振る。「ううん。私の方こそ……。私、あのとき依美ちゃんにそう言ってもらわなかったら自分の本当の気持ちを押し殺したままだった」あの時は目先なことしか考えていなかった。 海斗を立派に育てなければという使命感のみが紗良を支配していた。 依美の言葉は紗良を深く傷つかせたけれど、同時に自分のことを考え直すきっかけにもなった。「あのね、実は私、結婚するの」「いい人と出会ったんだ?」「うん、プール教室の先生」「えっ? もしかしてあの映画とか一緒に行ってたプールの先生ってこと?」「うん。だからね、依美ちゃんは私にきっかけをくれたんだ。自分の幸せを考えるきっかけ。本当に、ありがとね」「紗良ちゃぁ~ん」ズビズビと泣き出す依美に紗良も思わずほろりとする。 依美にハンカチを差し出せば「うええ」と更に泣き出した。「依美ちゃんって泣き虫だったんだ?」「違うの。なんかね、子ども産むと涙もろくなっちゃって」「そうなんだ?」コクコクと依美は頷く。 その経験は紗良にはないもので、何だか不思議に思う。 けれどきっと依美もそんな感じだったのだろう。「でも、本当におめでとう。自分のことのように嬉しい」「うん、ありがとう。依美ちゃんも、結婚と出産おめでとう」「ありがとう~」紗良と依美はふふっと微笑む。人はみな、違うのだ。 だからこうやって、意見が違えたりある日突然わかり合えたりするのだろう。
海斗が一年生に上がる前までに、入籍と引っ越しを完了する予定でいる。 それまではバタバタな日々が続くが、師走ともなると仕事の方も慌ただしくなった。相変わらずギリギリで出社した紗良は、フロア内がざわめいていることに気がついた。 小さな人だかりができていて女性たちの黄色い声が耳に届く。「紗良ちゃん」輪の中心にいた人物が紗良に声をかける。「わあ! 依美ちゃん!」紗良は驚いて目を丸くした。 依美は長かった髪をバッサリ切って、腕には小さな赤ちゃんを抱えている。 切迫早産の危険があり入院していたが、無事、十月に出産したのだ。 赤ちゃんは三ヶ月になろうとしているがまだ小さくふにゃふにゃだ。「うわあ、可愛い」「よかったら抱っこしてみる?」紗良が手を差し出すと依美は赤ちゃんをそっと乗せる。 思ったよりも軽く、そうっと触らないと壊れてしまいそうなほどに繊細だ。 海斗とは比べものにならないくらい柔らかい。 そう思うと、海斗は大きくなったんだなと改めて感じた。「ああ、あとさ……」「うん?」口を開いた依美は躊躇いながら一旦口を閉じる。 紗良は首を傾げながら抱いていた赤ちゃんを依美に返すと、依美は赤ちゃんを大事そうに抱きしめた。 そして今にも泣き出しそうな顔で紗良を見る。 言いづらそうにしていたが、やがて重い口を開いた。「私、紗良ちゃんに謝りたくて……」「えっ? 何かあったっけ?」「うん……。前に……結構前のことなんだけど、紗良ちゃんに対して、自己犠牲に酔ってるなんて言ってごめん。子供ができてわかった。何より大事だよね。私、あのとき無神経だった」本当にごめん、と依美は瞳を潤ませた。 紗良はつい最近も身近でこんなことがあったようなと記憶を辿る。――紗良に出会って海斗と接したり紗良のお母さんと話をして、ようやく気づけたというか……(あ、これって杏介さんと一緒だ……)経験を経て、その立場になってみてようやくわかること。 紗良が海斗のことを一番に考えていた気持ち。 それを依美は自身が妊娠することによって得たのだった。「急に入院してそのまま退職しちゃったからさ、皆には迷惑かけたなと思って、挨拶がてらお菓子配りに来たの」「そうだったんだ」「特に紗良ちゃんには迷惑かけちゃってごめんね。私の仕事やってくれてたんでしょ? あと、メッセージも返
◇無事に親への挨拶も済み、二人は結婚に向けて歩き出した。 海斗のこと、紗良の母親のこと、お互いの仕事のこと、考える事は山ほどある。 けれどひとつも大変だとは思わなかった。 この先に待っている新しい生活に思いを馳せながら、日々できることをこなしている。季節は秋から冬に移り変わるところ。 延びていた母の入院生活もようやく終わり、紗良たちはアパートに引っ越していた。 それは母の老後悠々自適生活のためのアパートではなく、紗良たちの一時的な住居だ。紗良と杏介は悩みに悩んだ末、紗良の実家を建て替えて二世帯住宅として住むことを母に提案したのだ。 母は渋ったものの、左手足の回復が思ったより上手くいかず、近くに住んだ方が安心だと説得されて了承した。 海斗は家が新しくなることと、家が出来たら杏介と一緒に住めることを喜んで心待ちにしている。いつものように海斗をプールに送り出して、ママ友の弓香と一緒に観覧席に座る。 と、弓香が声を潜めて紗良に迫る。「ちょっと紗良ちゃん、滝本先生と結婚するってほんと?」「えっ! 弓香さん、なぜそれを……」ドキリとした紗良は思わず目が泳ぐ。「海ちゃんが保育園で言いふらしてたみたいよ。うちの子が聞いたって。もー、いつの間にそんなことになってたの?」「いや、いろいろあって。っていうか、ちゃんと弓香さんには伝えるつもりでいたんだけど、まさか海斗から伝わるとは……」「やだもう、馴れ初めとか聞きたい聞きたい!」「お、落ち着いて弓香さんっ! さすがにここでは話せないし……。今度お茶したときにでも! ねっ?」「絶対よ。約束だからね!」こんなプール教室に通う子どもの親たちがひしめく観覧席で、まさかガラス越しのプールにいる杏介と結婚する、という話題は避けたい。 紗良は冷や汗をかきながら弓香を落ち着ける。「まさか紗良ちゃんの推しが滝本先生だったとは。一番人気じゃん」「そんな競馬みたいなこと言わないでよ~」「あーあ、私も推しの小野先生と仲良くなりたいわ」「またそんなこと言って、旦那さん泣くってば」「いいじゃない、別に。なにも不倫したいとか思ってるんじゃなくてさ、芸能人とお近づきになりたいみたいなミーハーな気持ちよ。それくらい楽しみがないといろいろやってられないってば。紗良ちゃんは真面目すぎるのよ」「……真面目なんですよ、私は
「本当に、いい人と巡り会えたのね。ね、お父さん。って、あら? やだ、何でお父さんが泣いてるの? ここで泣くのは私と杏介くんだと思うんだけど?」「いや、俺も父親として夫としていろいろ申し訳なかったな、と思ったら……つい……ぐすっ」父は目頭を押さえて上を向く。 寡黙な父で言葉数は少ないが、父には父なりの想いがあった。 それは言葉にならず涙として込み上げる。「……みんな、なんでないてるの? かなしいことあった?」大人たちの会話の意味はわかるが背景を知らない海斗は理解できずきょとんとする。 ずっと神妙な面持ちでいるかと思えば急に泣き出したのだから海斗としてはわけがわからない。「違うよ、海斗。嬉しくても涙は出るのよ」「海斗くん、これからよろしくね。お昼はピザでも取りましょうか? 海斗くんピザ好き?」「すきー! やったー!」「海斗、お利口さんにする約束!」「はっ! し、してるよぅ」紗良に咎められ慌てて姿勢良くする海斗。 微笑ましさに母は思わず口もとがほころぶ。「ふふっ、私ちょっとやそっとじゃ驚かないわよ。杏介くんで鍛えられてるから」と茶目っ気たっぷりに言われてしまい杏介は頭を抱えたくなった。 とはいえすべて自分が元凶なので謝ることしかできないのだが。「……いや、本当に申し訳な……」「杏介」涙のおさまった父が低く落ちついた声で名を呼び、はい、とそちらを向く。「いろいろ経験したお前だ。これからは紗良さんと海斗くんと幸せになりなさい」「父さん……」紗良は改めて杏介の手を握る。 杏介も応えるように握り返す。 今日、ここに来て本当によかった。 心からそう思った。顔を見合わせればお互い真っ赤な目をしていて、可笑しくなってふふっと微笑む。杏介と母とのぎこちなさがなくなったわけではない。 それでも暗く閉ざされていた部分に光が差し込み、今まで見えなかった出口が見えてきた気がした。
「杏介、母さんはずっとお前のことで悩んでて――」父が厳しく咎めようとしたが、母はそれを遮った。 そして小さく頷く。「……いいのよ。思春期だったもの。私も上手くできなくて相当悩んで荒れたし、お父さんにも相談してたの。だけどもう、杏介くんが元気ならそれでいいかなって思って。……家を出て、そこで紗良さんと知り合って結婚するんだもの。今までのことは紗良さんに出会うための布石だと思えば安いものよ」ね、と母は同意を促す。 どう考えても安くはないと思った。 結婚して幸せな家庭を築きたいと願っている杏介にとって、母が結婚してから今まで味合わせてしまった負の感情は取り返しもつかない。 ましてや自分が産んだ子のことでもないのに。「本当に申し訳なかったと……思う。紗良に出会って海斗と接したり紗良のお母さんと話をして、ようやく気づけたというか、その、なんていうか、今まで……すみませんでした。許してはもらえないかもしれないけど……」「杏介くん……」大人になって、その立場になってようやくわかる気持ち。 子どもの頃はなんて浅はかで未熟だったのだろう。 もう戻れやしないけれど、誠意だけはみせたいと思った。「ううっ……」突然隣から鼻をぐしゅぐしゅ啜る音が聞こえてそちらを見やる。「さ、紗良?」「あらあら、紗良さんったら」紗良は目を真っ赤にして涙を堪えていた。 慌てて杏介がハンカチを差し出す。「す、すみません。わたし、杏介さんが悩んでいたのを知ってたし杏介さんが私の母を大切にしてくれてるから、お母様とも仲良くできたらと思ってて……ぐすっ。だからよかったなって思って……ううっ……」「俺は紗良がいてくれなかったらこうやって会いに来ようとも思わなかった。ずっと謝ることができないでいたと思う」紗良とその家族に出会って、杏介は過去を振り返り変わることができた。 杏介は紗良の背中をそっとさする。 この杏介よりも小さい体で杏介よりも年下の紗良に、どれだけ助けられてきただろう。 自分の黒歴史でしかない親との確執に付き合ってくれ泣いてくれる。 その事実がなによりも杏介の心を震わせた。
「紗良さん、頭を上げてちょうだいね。私たち、結婚を反対しようなんて思ってないのよ。杏介くんから聞いてると思うけど、私は杏介くんの本当の母ではないから、複雑な家庭環境に身を置くことに対してその覚悟はあるのかしら、と気になっただけなのよ。気を悪くさせたらごめんなさいね」父が言葉足らずな分、それをフォローするかのように母は申し訳なさそうに告げた。「あ、いえ……」気を悪くなどと、と恐縮していると、杏介は紗良の手を握る。 突然のことに杏介を見やるが、握った手はそのままに杏介は真剣な顔をして母を見た。その手には力がこもっている。「……本当の、母だよ」「え?」「俺はちゃんと……あなたのことを……お母さんだと……思ってる」「……杏介くん?」杏介は一度紗良を見る。 握った手から力をもらうかのように紗良のあたたかさを感じてから、杏介は深く息を吸い込んだ。「……関係をこじらせたのは俺のせいだ。母さんはいつも俺に優しかった。冷たくしたって無視したって、ご飯は作ってくれたし、学校行事にも来てくれた。俺はずっと素直になれなくて逃げるように家を飛び出してしまったけど、本当は後悔してた。水泳の大会にも毎回来てくれてたのを知ってる」重かった口は一度言葉を吐き出したらすらすらと出てきた。 準備はしていなかった。 ずっと杏介の頭の中で燻り続けていた想いが溢れてくるようだった。杏介の母はしばらく黙っていた。 それは怒りでも喜びでもなく、まさか杏介がこんなことをいうなんてという驚きで言葉を失ったのだ。
杏介の実家の前には車が一台止まっていたが、端に寄せられてもう一台止められるスペースが開けてあった。杏介はそこに丁寧に車を付ける。インターホンを鳴らすとすぐに玄関がガチャリと開く。 出てきたのは杏介の母で、杏介と目が合うと、お互いぎこちなく無言のまま。 ここは紗良がまず挨拶をすべきと口を開いたときだった。「こんにちは!」海斗がずずいと前に出て元気よく挨拶をした。 慌てて紗良も「こんにちは」と続く。 杏介の母は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに小さく微笑む。「こんにちは。遠いところよくいらっしゃいました。どうぞ上がってくださいな」ペコリと頭を下げて、紗良と海斗は中へ入った。 杏介もそれに続きながら、「ただいま」と小さく呟いた。杏介の緊張感がひしひしと伝わってくる。 紗良はそっと杏介を見る。 いつになく緊張した面持ちの杏介は紗良の視線に気づくとようやくふと力を抜いた。「大丈夫。ちゃんとするから」紗良に聞こえるだけの声量で囁く。 それは嬉しいことだけれど、気負いすぎもよくないと思う。でもそれを今、杏介に上手く伝えることができず紗良はもどかしい気持ちになった。和室の居間に通され、杏介の父と母の対面に座った。紗良の横には海斗がちょこんと座る。「紹介します。お付き合いしている石原紗良さんと息子の海斗くん。俺たち結婚しようと思って今日は挨拶に来ました」「はじめまして。石原紗良と申します。ほら海斗、ご挨拶」「いしはらかいとです。六さいです」ピンと張りつめていた空気が海斗によって少しだけ緩む。 海斗は自分が上手く挨拶できたことにドヤ顔で紗良を見る。目が合えば「ちゃんとごあいさつできたー」と、これまた気の緩むようなことを口走るので紗良は慌てて海斗の口を手で押さえた。「……杏介、いいのか? 最初から子どもがいることに、お前は上手くやれるのか?」杏介の父が表情変えず、淡々と厳しい言葉を投げかける。緩んだ緊張がまた元に戻った。 それは杏介と杏介の新しい母が上手く関係をつくれなかったことを意味していて、杏介だけでなく母も、そして紗良も唇を噛みしめる思いになった。「いや申し訳ない。紗良さん、あなたを責めているわけではないから勘違いしないでほしい。これは我が家の問題でね……」「俺は上手くやれる。ちゃんと海斗を育てるよ。それも含めて結婚したいと思
杏介の実家は隣の県にあるが、 高速道路を使っても二時間ほどかかる。 本来なら、とても天気の良い絶好のお出かけ日和になりテンションも上がりそうなところ、紗良と杏介は若干神妙な面持ちである。 海斗だけが無邪気にDVDに夢中になっている。「はあ、緊張する ……」車を運転しながら、杏介は胃のあたりを軽く押さえた。「いや、私の方こそ緊張してるんだけど」紗良も大きく息を吐き出す。 初めて会う相手の親、しかも子連れで。 緊張しないわけがない。 さらに杏介と親の関係があまり良いものではないと聞かされれば、なおさらだ。 それは杏介とて然りで――。「こんなことを言うのもあれなんだけど、何年も両親に会ってなくてさ……」「でも会いに行くって電話したんでしょう?」「うん。父親は元々寡黙な人だから、ああ、わかったって一言」「お母さんは?」「父親から伝えてもらったから直接は話してないんだ。あと、今まで一回も……お母さんって呼んだことない」「じゃあ、なんて呼んでるの?」「……あの、とか、ねえ、とか?」言いづらそうに言葉を濁す杏介の姿が新鮮すぎて、紗良はポカンとしてしまう。 そして何故だか笑いが込み上げてきた。「杏介さんって意外と拗らせてるんだ?」「そうだよ。黒歴史だらけだよ。幻滅しただろ?」「まさか。逆に安心した。だって杏介さんってかっこいいしなんでもスマートにこなしちゃうしプール教室でもイケメンで優しいってお母さんたちにすごく人気があるんだよ。だから私、杏介さんと一緒にいて見劣りしたらどうしようってときどき不安になるもん。そういう弱い部分も持っていてくれなくちゃ肩が凝っちゃうよ」朗らかに笑う紗良に、杏介はバツが悪そうな顔で頭を掻く。「……紗良の前でもかっこいい俺でいたかったんだけどな」「じゅうぶんかっこいいし、知らなかった杏介さんの一面が見れて嬉しい」杏介はぐっと息をのむとチラリと紗良を見る。 運転中のため、すぐに視線は進行方向を向くのだが。「……紗良っていつも運転中にそういうこというよね。手が出せない」「な、何言ってるの、もう!」よからぬことを想像して紗良は焦る。 そんな時に背後から声がして紗良はビクッと揺れる。「ねー、DVDおわったからかえて一」「あー……はいはい」「なんかときどき海斗がいること忘れるな」「ほんとに。D