共有

第10話

作者: 錦松
なつみの性格は、外から見るといつも堅苦しくて無口だと思われがちだった。

多くの場合、彼女が感情を表に出すことはほとんどなかった。

だが今、彼女はまるで崖っぷちに追い詰められた一匹の小さな野獣のようだった。

従順な毛を伏せていた彼女が、今は鋭い爪を見せて威嚇しているように見えた。

しかし、そんな彼女の抵抗など、陽一には全く通じなかった。

彼は一言も返すことなく、彼女をベッドから引き上げた。そのまま、手際よく服を着替えさせ始めた。

なつみは彼を押しのけようとしたが、二人の力の差は歴然としていた。

結局、彼に引きずられる形で階下へと連れ出された。

「若旦那様、若奥様......」

階下にいた和江が驚いた様子で声を掛けた。

この光景を目にした彼女は、一瞬動きを止めた。

なつみは、和江の姿を目にすると、すぐに感情を押し殺し、抵抗することをやめた。

ただ、陽一に連れられ、そのまま屋敷の外へと連れ出されていった。

車が走り出し、しばらくしてから、なつみはようやく冷静さを取り戻した。

深く息を吸い込んでから、隣に座る陽一を見た。

「病院には行かなくてもいいわ。お母さんには私が直接説明するから。

あなた、仕事が忙しいんでしょう?私を送り返る必要もない。途中のどこかで降ろしてちょうだい」

車内は静まり返っていた。

二人きりの空間で、陽一が耳が聞こえないはずはない。

だが彼は何の返答もせず、車を走らせ続けた。

結婚して2年以上が経つが、なつみは目の前のこの男の性格をよく理解しているつもりだった。

彼の態度から察するに、これは相談ではない。まぎれもなく命令だ。

陽一はすべてを分かっているはずだ。

なつみが妊娠に対してなぜこんなにも拒絶反応を示すのか。

なぜ、子どもの話題になると性格が変わるのか。

だが、分かっていても関係ない。

彼はそれを全く気にしていなかったのだ。

彼にとって、結婚して子どもを持つことは当然の義務でしかない。

妻である彼女は、その義務を果たすべき存在なのだ。

かつて、なつみは期待を抱いたこともあった。

陽一が彼女を愛していないことは分かっていたが、それでも子どもがいれば何かが変わるのではないかと思った。

子どもがいれば、自分にも「家族」と呼べるものができるのではないかと。

だが、そのささやかな願いすらも叶わな
ロックされたチャプター
GoodNovel で続きを読む
コードをスキャンしてアプリをダウンロード

関連チャプター

  • 揺らめく陽炎   第11話

    さすがに経験豊富な漢方医も、彼女の言葉を聞いた瞬間、少し驚いた表情を浮かべた。というのも、彼のもとを訪れる人々は、ほとんどが子どもを授かりたいと願う者ばかりだった。ところが、なつみは避妊薬を飲んでいると言ったのだ。医師は思わず陽一の方へ視線を向けた。陽一も明らかにこのことを知らなかったようで、額に皺を寄せて不快感を露わにしていた。それでも医師はすぐに冷静さを取り戻し、一呼吸おいてから言葉を続けた。「では、これからはその薬をおやめください。まずは体調を整えるための薬を処方しますので、それを続けて飲んでください」なつみはそれ以上何も言わなかったが、医師が薬の処方箋を手渡した時には、すぐに手を伸ばして受け取った。「ありがとうございます」そう一言だけ残し、なつみは一度も振り返らずに診察室を出て行った。陽一も黙ったまま、彼女の後について診察室を後にした。なつみは、陽一が自分のことになど関心を持っていないと思い込んでおり、病院を出た後は自分でタクシーを捕まえるつもりでいた。だが、陽一はすぐに彼女の腕を軽くつかんだ。「車に乗れ」その声は冷たく、視線も同様だった。「いいえ、自分でタクシーを捕まえる」「なつみ、俺は車に乗れと言ったのだ」陽一の顔色はますます険しくなり、病院の入り口で押し問答を続けるのは公共の場としては適切ではないと、なつみもようやく気づいた。周囲を少し見渡した後、彼女はしぶしぶ車のドアを開けた。だが、まだシートベルトを締め終わらないうちに、陽一は突然アクセルを踏み込んだ。その急な動きに、なつみの体が前方に投げ出されそうになった。なつみは唇をきつく結び、なんとかシートベルトを締め終えると、険しい表情で陽一を見つめた。「送る気がないなら、今ここで降りてもいいわ」「どうして避妊薬を飲んでいる?」陽一は彼女の言葉を無視し、ストレートに問いかけた。その質問はまるで小学生でも分かるような単純なものだった。だが、なつみは冷静に答えた。「妊娠したくないからよ」陽一はようやく彼女の方を向いた。今回は、なつみも視線を逸らさずに彼をじっと見返した。ちょうど信号が赤に変わり、陽一は車を止めた。時間が一秒一秒と過ぎていく中で、陽一は何も言わなかったが、その握りしめたハ

  • 揺らめく陽炎   第12話

    陽一は結局、なつみを雪見別荘まで送り届けることはしなかった。自分の言いたいことを全て伝え終えると、適当な交差点で車を止め、なつみを降ろした。なつみがまだ足元をしっかりと整える前に、陽一はアクセルを踏み込み、黒いポルシェは彼女の横を疾走していった。一切の躊躇もなく。なつみはもう慣れていた。だが、手は自然と拳を作り、指先が掌に食い込んだ。その感覚は軽い痛みを伴わせた。——それは、彼女自身への警告。もう彼に対して、どんな幻想も抱くな、と。外に出たついでに、なつみは気晴らしに街をぶらぶらと歩くことにした。だが、彼女の運はあまり良くなかった。商業施設に入った途端、彼女は向こうからやってきた人物とぶつかってしまった。「まあ、これはこれは。速水社長の奥様じゃないですか?」結城麻由がにこやかに笑いながら話しかけてきた。「珍しいですね。あなたって、まるで人間味がない人みたいだから、街なんて歩かないと思ってましたよ」真央の親友第一号として知られる麻由は、この界隈でなつみと事あるごとに張り合うことを楽しんでいる人物だった。他の人々がなつみと陽一が結婚した後、少なからず彼女に対して慎重な態度を取るようになった一方で、麻由だけは嫌がらせをエスカレートさせていた。というのも、彼女にとって速水社長の「奥様」というポジションは、本来であれば親友の真央が手にするものだと信じていたからだ。その時も、なつみは麻由に構う気はなく、無言で前を通り過ぎようとした。しかし、麻由がまた彼女の行く手を遮った。「どこへ行くんですか?一人みたいだし、一緒にどうですか?」なつみは無表情のまま彼女を見た。「ごめんなさい、都合が悪いです」「どうして都合が悪いんですか?もしかして誰かと約束していて、私に知られると困りますか?......浮気相手?」なつみはふと問いかけた。「結城さん、学校に通ったことはありますか?」「何ですって?当然あるに決まっているでしょう!」「だったら、デマを流すにはコストと代償が必要だってことくらい知ってるはずよね。何の根拠もなく他人のことをでっち上げるなんて、ご両親や先生からそう教育されたんですか?」なつみの言葉は淡々としていたが、その視線は終始麻由をまっすぐに見据えていた。その態

  • 揺らめく陽炎   第13話

    結城麻由が言い終わると、なつみは不意に軽く笑った。その反応を見て、麻由の笑顔は一瞬で消え、眉間に皺を寄せた。「何がおかしいの?」「結城さん、暇があればもっと本を読んだ方がいいですよ」 なつみは淡々と言い放った。「そうしないと、教養がないだけならまだしも、言うことすべてが笑いものになってしまいます。ほんとうに......馬鹿で性格も悪いなんて、残念ですね」 先ほどまでのなつみは少し皮肉を隠していたかもしれないが、今回の発言は完全に麻由を正面から非難するものだった。麻由の顔色は一瞬で険しくなり、怒りがその表情に溢れた。なつみが彼女の横を通り抜けようとしたその時、麻由は突然なつみの髪を掴んだ。「田舎者のくせに、よくも私に説教なんてできるわね! 自分の立場を考えなさいよ! 速水社長の奥様になったからって、偉くなったとでも思っているの!?」麻由が話している途中で、なつみは振り返り、彼女の頬に平手打ちを見舞った。その動きは潔く、躊躇が全くなかった。麻由は最初驚いたように固まったが、すぐに叫び声を上げてなつみに向かって飛びかかった。その間に何が起こったのかは、はっきりとは分からない。おそらく、真央が麻由を止めようとした際、逆に麻由に押されてしまったのかもしれない。あるいは、真央自身がタイミングを見計らって、意図的に近くのガラスケースにぶつかったのか。いずれにせよ、周囲から悲鳴が上がったときには、真央はすでに地面に倒れていた。彼女は腕を上げ、その腕から鮮血が流れ落ちていた。真央はなつみを見上げ、涙を浮かべて言った。「お姉ちゃん......痛いよ......」......「なつみ!」焦り切った声が廊下の端から響いてきた時、なつみは一瞬動きを止めた。彼女が立ち上がる間もなく、藤堂夫人が彼女の前に駆け寄ってきた。「真央はどうなっているの?大丈夫なの?」「ママ......」真央の声がすぐ後ろから聞こえたため、藤堂夫人はなつみに返事を求めることもなく振り返った。そして真央の腕に巻かれた包帯や、服に染み込んだ血を見た瞬間、藤堂夫人の顔色は一変した。「どうしてこんなことになったの?痛まないの?」「先生がもう縫合してくれたから、大丈夫だよ。あんまり痛くないの」

  • 揺らめく陽炎   第14話

    「お姉ちゃん!」真央は駆け寄ると、なつみの手をぎゅっと掴んだ。「お姉ちゃん、怒ってるよね?ママは悪気があったわけじゃないの。全部私が悪いの。私が不注意だっただけで......」「でも大丈夫。私、ちゃんとお姉ちゃんの家を出ていくから。もう迷惑はかけないし、義兄さんの邪魔もしないから......」「うん、それがいいわ」なつみはあっさりと答えた。その瞬間、隣で見ていた藤堂夫人の眉がピクリと動き、真央の瞳には明らかに驚きの色が浮かんだ。「じゃあ、私はもう行くね」なつみは二人の反応を全く気にすることなく、掴まれた手をするりと振りほどいて、その場を立ち去った。その背中を見送りながら、真央は泣きそうな声で叫んだ。「ママ、どうしよう......お姉ちゃん、きっと私のことが大嫌いなんだ......」その言葉を聞いた瞬間、なつみは心の中で一瞬振り返り、「その通り、私はあんたが嫌いだ」と言い放ちたい衝動に駆られた。しかし、その思いをすぐに断ち切った。というのも、そんなことを言えば、藤堂夫人から平手打ちを食らう未来が目に見えていたからだ。実際、過去にも同じようなことは何度も経験している。なつみはかつて疑問に思ったことがある。自分こそが実の娘なのに、なぜ両親は真央ばかりを贔屓にするのか、と。だが、今ではその理由に気づいていた。自分が田舎で過ごした過去は、両親にとって恥ずべきものだったのだ。あの黒ずんだ肌と野暮ったい見た目は、彼らにとって到底受け入れられるものではなく、そんな自分が彼らの娘であるという事実が苦痛だった。彼らにとって「娘」とは、真央のように上品で、教養があり、誰からも好かれる存在でなければならなかったのだ。一方で、自分は完全に「失敗作」とみなされていた。なつみが家に戻ると、まだ和江に指示を出す前に、藤堂家から人が来て、真央の荷物を持ち帰りたいと言ってきた。なつみはもちろん、止めることはなかった。一方で、和江は何度も驚いた声を上げた。「どうしたんですか?真央お嬢様はここでちゃんと暮らしていたのに、どうして急に引っ越すことになったんですか?」だが、その問いかけに対して、荷物を運ぶ者たちからの返答は一切なかった。結局、彼女はなつみの方を見たが、なつみはすでに自分の部屋に戻って

  • 揺らめく陽炎   第15話

    なつみは突然の侵入に驚き、反射的に手を伸ばして服を引き寄せ、身にまとった。そして、眉をひそめながら入ってきた人物を睨むように見た。陽一の表情もまた険しく、決して穏やかではなかった。二人はそのまま沈黙のまま視線を交わし続けた。その光景は夫婦というよりも、まるで敵対する者同士のようだった。「用がないなら出て行って。寝るつもりだから」最終的に先に口を開いたのはなつみだった。しかし意外にも、陽一は彼女に怒りを爆発させることなく、すぐに背を向け、あっさりと言った。「明日のお昼、時間を空けておけ」なつみは思わず尋ね返した。「何をするの?」だが、陽一は彼女の問いには答えなかった。なつみは彼の背中をじっと見つめた。「もし真央に謝れって言うなら、私は行かない」その言葉に、今度は陽一の足音がピタリと止まった。彼のその反応は、なつみの推測が正しいことをはっきりと示していた。なつみは手をぎゅっと握りしめた。「真央はお前の妹だ」陽一は無表情のまま淡々と言った。「妹なんかじゃない。それに、彼女は自分で転んだのよ。私は何も悪くないのに、どうして謝らなきゃならないの?」「じゃあ、なつみは何か正しいことをしたのか?」陽一は冷たく笑った。「人前で喧嘩をすることか?自分の立場を少しはわきまえたらどうだ?」「私の立場?」なつみも笑い返した。「どうせ田舎から引き取られた野良みたいな存在でしょ? 確かにその通りよ。私は田舎で10年も暮らして、粗野で教養のない人間になった。あなたたちが望むような、上品でおしとやかな女性にはなれないわ」「だから速水社長、後悔してるんでしょ? だって、あなたの子どもに、こんな粗野な母親はふさわしくないもの」その言葉を聞いた瞬間、陽一の目には冷たい光が宿った。「どういう意味だ?」「そのままの意味よ」なつみはまっすぐ陽一を見つめた。「とにかく、謝るつもりはない。もし私が恥ずかしい存在だと思うなら、どうぞ......」「藤堂なつみ、よく考えてから話せ」陽一は彼女の言葉を遮るように言い放った。彼女を見るその目はさらに冷たさを増していた。なつみは一瞬、自分の言葉の選び方を間違えたことに気付いたが、それでも手をぎゅっと握りしめたままだった。陽一

  • 揺らめく陽炎   第16話

    その離婚協議書は、結局なつみによって再び引き出しに戻された。翌日、彼女は陽一を待つことなく、自ら車を運転して藤堂家へ向かった。藤堂家は桐山市の市街地と郊外の境界に位置する高級住宅地で、まさに一等地だった。なつみが車を停めた瞬間、すぐに一人の使用人が彼女に気づいた。だが、その使用人は彼女を出迎えることなく、急いで屋敷の中へと戻っていった。なつみはそれを気にする素振りも見せず、静かに車から降りた。出発する前に、謝罪のためにといくつかの贈り物を用意してきていた。謝罪には、それなりの形が必要だと考えていたからだ。「なつみ様がお越しです!」なつみが屋敷に入った瞬間、先ほど通報に駆け込んでいた使用人が笑顔で迎え入れた。なつみは軽く頷き、そのまま中に入った。「お姉ちゃん!」藤堂真央が階段を降りてきた。白いワンピースに身を包み、肩に落ちる黒髪とその清純な顔立ちが相まって、思わず目を引く美しさだった。真央は「お姉ちゃん」と呼びかけながらも、その視線はなつみの背後を探しているようだった。なつみが一人だけだと分かると、真央の瞳には一瞬驚きの色が浮かんだ。「あれ、お姉ちゃん、一人で運転してここに来たの?」「そうよ」なつみは静かに頷くと、真央の手元に視線を移した。「怪我の具合はどう?」「もう大丈夫......」真央は表情を抑えながら答え、すぐに話題を変えた。「ママは二階にいるわ。まだちょっと怒ってるみたいだけど、お姉ちゃん、会いに行く?」「分かった」なつみは驚くほどあっさりと答えた。その反応に真央は少し面食らった表情を浮かべたが、何も言う間もなく、なつみは彼女の横を通り過ぎて二階へ向かった。藤堂夫人は二階のフラワールームで生け花をしていた。なつみが「お母さん」と声をかけると、夫人は軽く鼻を鳴らすだけだった。「ちょっとしたものを持ってきました。下に置いてあります」なつみは夫人の冷たい態度に動じることなく、淡々と言葉を続けた。「昨日の件は私が感情的になりすぎました。ただ、実際に何が起きたのかはっきり分からなかったので、ショッピングセンターに監視カメラの映像を依頼しておきました」ちょうどなつみの後ろについて部屋に入ってきた真央は、その言葉を聞いた途端、顔色を変えた。「お姉

  • 揺らめく陽炎   第17話

    「真央は全然悪くないよ!」真央のそんな様子を見るなり、藤堂夫人は胸を痛めたような表情を浮かべ、その手をしっかりと握りしめた。「なんでこんな馬鹿なことをするの?これが手の怪我で済んだからまだ良かったけど、もし顔に傷が残ったらどうするつもりだったの?」真央は首を横に振った。「その時は他に方法が思いつかなかったの。お姉ちゃんと麻由ちゃんがあのまま喧嘩を続けていたら、どうすることもできなかったから......」その言葉を聞いた藤堂夫人は、何かを思い出したように険しい目つきでなつみを睨んだ。「なつみ、自分が引き起こした事態をよく見なさい!姉であるあなたが、真央にこんな風なことをさせるなんて、恥ずかしくないの?」「私は彼女に助けてほしいなんて思ってもいない」なつみが冷静に答えると、藤堂夫人の表情は一気に険しくなった。「何だって?もし真央が止めなかったら、あなたは一体何をするつもりだったの?あそこが公の場だって分かっているの?もし誰かがその様子をネットに流したら、藤堂家の顔がどうなると思っているの?まして速水家の人たちは、あなたをどう見ると思うの?」なつみは黙り込んだ。だが、その目は藤堂夫人をまっすぐに見つめ、まるで「気にしていない」と言っているようだった。藤堂夫人は怒りのあまり体を震わせ始めた。「これはどういうつもりなの?まだ反抗するつもりなの?今すぐ外に出て跪きなさい!」しかし、なつみは微動だにしなかった。代わりに、真央がすぐ取りなすように声を上げた。「ママ、もう怒らないで。お姉ちゃんだって、こんなことになるなんて望んでいなかったはずだし......」「真央、黙りなさい」藤堂夫人は彼女の話を遮り、再び鋭い目でなつみを見つめた。「どうなの、今のなつみは私の言うことも聞かないの?私を見下しているの?ああ、やっぱりね。最初からあんたを家に戻すべきじゃなかったわ!」その言葉がフラワールームに響き渡った瞬間、場の空気が一変した。藤堂夫人は、自分の言葉が強すぎたことに気づいたのか、それとも心の奥底に秘めていた本音をうっかり漏らしてしまったと感じたのか、一瞬戸惑いの表情を浮かべた。なつみは何も言わなかった。ただ振り返ると、そのまま部屋を出て行った。「こ、こら.....

  • 揺らめく陽炎   第18話

    なつみは、だらりと下げていた手をついに握り締めた。そして、ついに真央の方を見た。真央はなつみに向かって微笑んでいた。その大きくて丸い瞳には、相変わらず無邪気を装った表情が浮かんでいる。なつみは彼女とじっと視線を交わした後、不意に笑みを浮かべた。そして、静かに口を開いた。「捨て子」 ——逆鱗。それは、誰にでも触れてはならない部分がある。 この言葉こそ、間違いなく真央にとっての禁忌だった。その言葉を聞いた瞬間、真央の顔色は一気に険しくなった。考える間もなく、彼女は手を伸ばし、なつみを力任せに押し倒した。それは真央の反射的な行動だった。怒りの炎が彼女の理性を焼き尽くし、その後にやってきたのは、自分が何をしたのかという気づきだった。だが、もう遅かった。「何をしているの!」 藤堂夫人の驚いた声が部屋に響いた。真央はその場で動きを止め、硬直した。そしてすぐに振り返り、何かを言おうとしたが、藤堂夫人は彼女を無視してなつみの方へと歩いていった。真央の伸ばした手は、そのまま空中で止まったままだった。一方、なつみは自分で腕をついて立ち上がると、軽く笑みを浮かべた。「大丈夫です」その態度は、普段の真央がよく見せるものとそっくりだったが、今の笑みにはどこか皮肉めいた響きがあった。それでも藤堂夫人は気づかず、不満げに真央を一瞥した。「違うの、ママ、私は......」真央は弁解しようとしたが、その時、階下から声が響いた。「奥様、陽一様がお見えになりました」その言葉を聞いた途端、真央の目から涙がぽろぽろとこぼれ落ち始めた。陽一が使用人に案内されて上がってきた時、ちょうどその光景を目にした。「もう、その涙を拭きなさい」藤堂夫人はすぐに彼女に声をかけ、それから陽一を見て言った。「陽一君、よく来てくれたわね」「奥様、ごきげんよう」 陽一は軽く頭を下げて挨拶をし、状況を尋ねた。「何かあったんですか?」「別に何でもないのよ。ただ、なつみがうっかり......転んだだけよ」その口調からは、真央を庇おうとする意図が明らかに見えてきた。なつみは藤堂夫人を一瞥し、問いかけた。「お母様、私は本当にうっかり転んだんですか?」「そうよ」藤堂夫人の返事はきっぱ

最新チャプター

  • 揺らめく陽炎   第100話

    陽一はまず彼女のスマートフォンの画面を一瞥し、それから問い返した。「どこに行ってたんだ?」なつみは唇を噛みしめながら答えた。「なんで私の鍵を変えましたか」「俺、の、質問、に、答えろ!」陽一の表情は険しく、声には怒りが滲んでいた。なつみは最初、彼と徹底的に言い争うつもりだったが、その視線をしばらく受け止めた後、ついに口を開いた。「病院です」陽一の表情がわずかに変わり、その視線が彼女の全身を一瞬見渡した。なつみはその視線には気づかず、続けて言った。「午後、母が目を覚ましたって連絡がありました。でも私が到着した時にはまた眠ってしまっていて......ずっとそこで待っていました。もう一度目を覚ますかもしれないと思って」彼女の声は小さく、明らかに沈んでいた。陽一の冷たい表情も、これで少し和らいだようだった。しかしすぐに何かを思い出したように尋ねた。「それなら、どうして電話に出なかったんだ?」「サイレントモードにしてたから気づきませんでした」なつみはそう答えると、続けて尋ねた。「それで、もう中に入ってもいいですか?」陽一はようやく体を横にずらして道を開けた。なつみは靴を履き替え、肩から下げていた布製バッグをテーブルに置いた。そして彼の方を振り返り、尋ねた。「それで、一体何しにここへ来たの?」陽一自身もよくわからなかった。ただ、パークハイツには居たくなくて、陶然居にも戻る気になれなかった。車を走らせているうちに、気づけばここへ来ていた。「お腹が減った」「え?」「何か食べたいんだ」陽一は突然そう言って、ダイニングテーブル横の椅子を引いて腰掛けた。この部屋は狭く、ダイニングテーブルも幅60センチほどしかない。その椅子に座ると、彼の足元は窮屈そうだった。しかし陽一自身は特に気にする様子もなく、なつみが動かないことに気づくと顔を上げ、「どうしてまだ食事を準備しないのか?」と言わんばかりの視線を向けた。なつみは彼を陶然居へ追い返したかった。あそこには料理人も使用人も揃っているからだ。しかし今夜の彼女は疲れており、それ以上の争いには気力が残っていなかった。仕方なくスマートフォンを取り出して言った。「何が食べたい?デリバリー頼むから」「デリバリーだと時間がかか

  • 揺らめく陽炎   第99話

    速水陽一は高い地位にあり、これまで数えきれないほどの誘惑に直面してきた。そして目の前の女性は、その中でも最も拙劣な部類に入るだろう。彼はその女性を一瞥することもなく、なつみに電話をかけた。しかし、電話は繋がったものの応答はなかった。陽一の顔色はますます険しくなった。女性は彼の背後に立っており、彼の無視に内心屈辱を感じていた。しかし、陽一が乗ってきた高級車や彼の身につけている高価そうな服を思い出すと、彼女は勇気を振り絞って声をかけた。「藤堂さんとはどんな関係なんですか?友達ですか?でも彼女、今電話に出られないんじゃないですか?こんな時間まで帰らないなんて、きっと男とデートしてるんですよ。実は、彼女は見た目ほどおとなしくないんですよ。裏でかなり遊んでいるみたいで、今朝も私が見てしまったんですが......」女性が話を続けようとした瞬間、陽一が彼女を睨みつけた。その冷たい視線に射抜かれ、彼女は言葉を失ってしまった。彼女自身、それなりに多くの人間を見てきたつもりだった。喧嘩や暴力沙汰に巻き込まれることもあったが、これほど強烈な圧迫感を感じたのは初めてだった。まるで、彼女はもう一言余計に何かを言えば、本当に命を奪われるかのような恐怖を感じた。陽一は彼女を一瞥しただけで再び視線を外し、その後すぐ鍵屋に電話をかけた。本来、鍵屋が鍵を開けるには住人や借主の証明書の提示が必要だったが、鍵屋が到着すると、陽一は一言も話さず、持っていた現金を全て差し出した。そして静かにタバコに火をつけ、「開けてくれ」とだけ言った。鍵屋は陽一の腕時計を一目見ただけで、この辺りのマンション数階分の価値があることがわかり、すぐさま金を受け取って作業を始めた。前回、陽一がなつみに鍵の交換を提案したが、彼女がそれを無視したことは明らかだった。今、その鍵は緩んでおり、鍵屋はほとんど力を入れずに開けることができた。陽一に損をさせまいと、彼は新しいデジタルロックに交換しておいた。作業中、陽一は一言も発さなかった。鍵師が作業を終えると、陽一はすぐに部屋に入り、ドアを乱暴に閉めた。ドアの外に残された二人は、顔を見合わせるばかりだった。なつみの部屋は、陽一が前回訪れた時と大きな変化はなかった。ただ、サインが必要な書類や本がなくなってお

  • 揺らめく陽炎   第98話

    夜が更けていた。街の灯りが一斉に点き、色とりどりのネオンとラッシュ時の赤いテールランプの海が一つに溶け合い、この繁華で冷たい都会を象徴する光景を作り出していた。速水ビルは市の中心部に位置しており、その巨大な窓ガラスは、まるで絵画の額縁のように、外の景色をすべて切り取って、鑑賞するために飾っているかのようだった。その窓越しに広がる景色を、速水陽一は無表情でじっと見つめていた。彼の手にはライターが握られており、そのスイッチを何度も押しては青い炎を点けたり消したりしていた。炎が一瞬現れ、また消える。その繰り返しだった。陽一には父親についての記憶はもうほとんど残っていない。思い出せるのは、厳しい表情と自分に対する厳格な要求、そして最後に病床で身動きも取れなくなった姿だけだった。彼が亡くなった時、陽一はまだ12歳だった。父子の情はそれほど深くなかったが、少なくとも彼の記憶では普通の父親だったと言えるだろう。父親と母親の間には、愛情があったのかもしれない。そうでなければ、母親がこんなに長年にわたって再婚せずにいるはずがない。当初、なつみとの結婚を勧めたのも、母親が父親の遺志を尊重したいと主張したからだ。しかし今となって、それすらもすべて嘘だったように思えてきた。自分はずっと偽りの中で生きていた――そんな感覚が彼を襲った。最後にライターのスイッチを放した後、陽一はそれを机の上に投げ捨て、その場を後にした。運転手はすでに下で待機していた。陽一が出てくると、彼はすぐに恭しく近づいた。しかし陽一は彼を見ることなく、そのまま運転席に乗り込んだ。運転手が何か言おうとする前に、陽一はアクセルを踏み込んだ。パークハイツにはすぐに到着した。しかし部屋に入ると、中は暗く、人の気配がないことに気づいた。電気を点けると、部屋はきれいに片付けられており、なつみの姿はどこにもなかった。昨夜、なつみが自分を噛んだ時――陽一は彼女を簡単には許さないつもりだった。最後には浴室で......彼女は泣きながら、陽一に許しを乞い、彼の要求通りに多くの屈辱的な言葉を口にした。陽一は、なつみが少なくとも一日はここで休むだろうと思っていた。しかし今となって、それも自分の甘い考えだったことに気づかされた。彼女がここにとどま

  • 揺らめく陽炎   第97話

    なつみの目から涙がこぼれ落ちた。「この野郎......」彼女は歯を食いしばりながら震える声で言った。彼女の首筋にキスをしようとしていた陽一は、彼女の言葉を聞いて一瞬動きを止めた。そして、彼女の顔をゆっくりと見上げた。なつみの口紅はすでに滲み、涙によってアイラインも滲んでしまい、髪も乱れて、とても惨めな姿だった。しかし、陽一が彼女の睫毛に光る涙を見た瞬間、胸が不意に跳ねた。彼は動きを緩め、なつみの後頭部をそっと抱き寄せて、優しく唇を重ねた。そのキスは先ほどまでの荒々しさとは異なり、穏やかで柔らかかった。なつみも先ほど強く拒絶する様子はなかった。彼女が痛みに耐えている間、陽一もまた心中穏やかではなかった。今、彼女が態度を和らげたことで、陽一も冷静さを取り戻し始めていた。だが――陽一が何か話そうとしたその瞬間、なつみは突然口を開き、彼の唇に思い切り噛みついた!......「速水社長」一日が経過したにもかかわらず、川口延良が陽一に話しかける際、その視線はどうしても彼の唇へと引き寄せられてしまう。確かに、陽一の頬に残る手形の痕跡も相当に目立っていたが、唇の血痂と比べると、少し目立たない程度だった。もしそれが単なる平手打ちの跡だけであれば、「速水家で何らかの家庭内トラブルがあったのだろう」と推測されるにとどまっただろう。だが、唇にまで傷が残っているとなると、事態は全く違ってくる。――頬と唇、この二つの痕跡を同時に残すことができるのは、女性しかあり得ないのだ。しかし、速水陽一はすでに2ヶ月前に離婚している。彼にこんな痕跡を残す女性とは、一体誰なのだろう?「何か用か?」陽一の声に、延良は我に返り答えた。「社長のお母様、速水夫人がいらっしゃいました」「何のために?」「何かお届け物があるそうで、今は応接室に通されております」「忙しいから会う時間はない。お前は......」そう言いかけたところで、冷たく澄んだ声が響き渡った。「何がそんなに忙しくて、私に会う暇もないの?」陽一の眉間に皺が寄った。延良は慌てて振り返り、言い訳しようとした。「速水夫人、その......」「その顔、一体どうしたの?」速水夫人はすぐに息子の顔へ目を向け、その表情が険しくなった。「新しい

  • 揺らめく陽炎   第96話

    「何をするんですか!」なつみは一瞬驚いたが、すぐに激しく抵抗し始めた。「離して!速水さん!手を放しなさい!」彼女は必死に足をばたつかせ、片方のハイヒールが脱げ飛んだ。ホテルの廊下に敷かれたカーペットに靴が落ちても、音は一切しなかった。エレベーターに入ると、陽一はなつみを下ろした。しかし、彼女を隅に追い詰めると、逃げ出そうとする彼女の顎を掴み、そのまま唇を重ねた。彼は彼女に迷う隙も、抵抗する余地も与えず、舌で無理矢理彼女の歯を開けた。あまりの激しさに、なつみは息苦しさを感じた。両手は彼に押さえつけられ、彼を押しのけることもできない。さらに、陽一の膝が持ち上がり、スカートの中に割って入ってきた。彼女の体のことを誰よりも知っている彼の、乱暴とも言える動きに、なつみは自分がまるでまな板の上の鯛のように感じた。ただただ包丁が振り下ろされ、皮を剥がれ、骨までも切り刻まれるのを見ているしかないようだった。しかし、それ以上に屈辱的だったのは、そんな状況でも自分の体が反応してしまったことだった。思わず身震いし、腰から力が抜けそうになる。その明らかな反応に、陽一も気づいたようだ。彼は小さく笑うと、彼女の顎に当てていた手をずらし、肩紐に伸ばした。吊り紐が外れ、エレベーターの冷たい空調の風が服の隙間から入り込むと、なつみの体はさらに震えた。しかし、彼女はもう抵抗しようとはせず、ただ目を閉じてその場に立ち尽くしていた。「チーン」とエレベーターの扉が開く音がした。陽一は素早く反応し、その瞬間には自分のジャケットを脱ぎ、なつみに羽織らせた。そして、彼女を自分の胸に引き寄せた。――彼自身はまだ仮面をつけたままだった。扉の外では数人がこの光景に驚いたようだった。しかし陽一は相手が反応する隙も与えず、すぐさまボタンを押して扉を閉じた。その間、なつみは彼の胸に寄りかかったまま動かなかった。その従順な様子に、陽一は満足げだった。駐車場では運転手が待機していた。エレベーターから降りると、陽一はそのままなつみを引き連れて車へ向かった。彼女はもう抵抗せず、よろめきながらも彼について行った。車内では仕切り板がすぐに上げられた。そして、なつみの吊りドレスがはだけられ、白い肌が車内の明かりに照らされた。陽一

  • 揺らめく陽炎   第95話

    なつみはようやく状況を理解し、蹴り上げようとしていた足をゆっくりと引っ込めた。陽一の仮面はまだしっかりと顔に固定されていたが、凍てつくような目つきをしていて、まるで彼女をその場で引き裂こうとしているかのようだった。「私をここに連れてきて、一体何のつもり?」しばらく彼と視線を交わした後、なつみはようやく口を開いた。「どうした?俺が邪魔をしたことがそんなに気に入らないのか?」陽一の表情は一層険しくなり、その手はなつみの顎を力強く掴んだ。先ほどダンスを断られたこと、さらには蹴りを受けたこと――その恨みを彼は忘れてはいないようだった。その力はまるでなつみの骨を砕こうとしているかのようだった。なつみは眉をひそめ、彼の手を振り払おうとした。しかし、速水陽一は素早く彼女の両手を掴み、膝で割り込むようにして彼女の足の間に入り込んだ。「藤堂なつみ、君は本当に人気者だね」彼は冷笑を浮かべながら言った。「なつみにこんな社交的な才能があるとは知らなかったよ」――以前の彼女はいつも静かで控えめだった。だが、ときおり見せる艶やかな表情や仕草は特別だった。陽一はてっきり、それは自分だけが知る彼女の一面だと思っていた。だが、どうやらそうではないらしい。陽一は、まるで騙されたような――いや、弄ばれたような気分になった。彼の言葉に、なつみの表情が一瞬曇った。しかしすぐに微笑みを浮かべ、こう切り返した。「速水さんの目には、男性と2曲踊っただけで、そんな軽薄な女に見えるんですか?」「他人ならともかく、君の立場は違うだろう?男に向かってそんな風に笑いかけるなんて、軽率じゃないのか?」「私の立場がどう特別なんですか?」なつみは反射的に問い返した。しかしその言葉が口から出た瞬間、自分でも何かに気づき、ゆっくりと彼を見つめた。「速水さん、その言葉......どういう意味ですか?」陽一は答えず、ただ目を細めて彼女を見つめ返した。その反応だけで、なつみには十分だった――彼の言葉の意図が、自分の推測通りだと悟ったからだ。自分の立場が特別だというのは、過去に襲われそうになった経験のことだろうか?村田和夫が捕まった後、周囲からは彼女が軽率な行動を取ったから、「自業自得だ」などと囁かれたものだ。しかし、なつみが最も鮮明に覚えている

  • 揺らめく陽炎   第94話

    なつみと葉山翔太の話し合いは順調に進んでいた。一曲が終わった後も二人はその場を離れず、続けて次の曲を踊り始めた。「まだお名前を伺っていないのですが?」翔太が我慢できずに尋ねた。なつみは眉を上げて答えた。「仮面舞踏会なんですから、名前を交換する必要はないですよね?」「でも君は僕のことを知っているよね?それだと僕だけ不公平じゃないですか?」「会場には葉山さんのことを知っている人がたくさんいますからね。有名な方ですから、こればかりは仕方ありません」なつみの声には少し困ったような響きが混じっていた。それでも翔太は全く怒る様子もなく、続けた。「それでは、今夜が終わった後で、君を食事に誘っても、チャンスはないということですか?」と「いえ、チャンスはありますよ」なつみは真剣に頷きながら言った。「その時は葉山さんがご自身のお父様を連れてきてください。私は西川さんと一緒に参加します。一緒に食事をするのは素敵ではないですか?」「それで、結局君は西川修平の部下なのですね?秘書ですか?それともアシスタント?或いは彼の会社の所属タレント?」翔太がいくつか推測を重ねたが、なつみは答えずに逆に問い返した。「それで、食事の件、葉山さんは同意していただけますか?」「君が来るなら、もちろん同意します」「いいですよ」なつみはあっさりと答えた。翔太は彼女をじっと見つめた後、こう言った。「君、僕を騙しているんじゃないでしょうね?言っておくけど、今夜の君のことはしっかり覚えているからね。西川修平が誰か別人を送り込んできても、一目でわかりますよ」なつみはただ微笑むだけだった。「どうですか?僕が君を見分けられるとは思いませんか?」「いえ、とんでもないです」なつみは真剣に頷きながら、答えた。「葉山さんが私を評価してくださり、ありがとうございます。でもご安心ください。約束した以上、必ず参加します。ただ、私を見分けるかどうかは葉山さんの目利き次第ですね」「そう言われると、ますます君の正体が気になりますね」葉山さんがそう言いながら、ダンスステップに合わせて彼女に近づいた。その動きに驚いたなつみが後退しようとした瞬間、隣から誰かが足を伸ばし、葉山さんの足元を思い切り踏んだ!「誰ですか!

  • 揺らめく陽炎   第93話

    「この方、順番というものをご存知ないのでしょうか?」葉山翔太(はやま しょうた)が振り返り、にこやかに問いかけた。速水陽一は表情を崩さずに答えた。「もちろん知っています。でも、選ぶ権利はこの女性にあるべきだと思います」その言葉には返す言葉が見つからなかった。陽一は翔太を見ることなく、なつみをじっと見つめ続けた。いつもは静かで穏やかなその瞳には、今は抑えきれない感情が渦巻いているようだった。なつみは下ろした手を思わず握りしめた。しばらくして、彼女はふっと微笑むと、その手を翔太の差し出した手に乗せた――彼の誘いを受け入れたのだ。陽一の瞳から光が消えた。開いていた手も強く握りしめられた。彼はもう一度なつみを見ようとしたが、彼女はすでに翔太とともに踵を返していた。二人の背中を見つめながら、陽一は歯をぎりぎりと噛み締めた。その時、西川修平が近づいてきた。「速水さん」陽一は無表情で彼を見つめた。「まさか今夜お越しになるとは思いませんでした」修平は笑みを浮かべながら言った。「まだお祝いを申し上げていませんでしたね。G国での交渉、大成功だったと聞きました」「ありがとうございます」陽一は答えたが、その態度は素っ気なかった。会話の間、一度も修平の方を見なかった。「今夜は藤堂さんのためにいらしたんですか?」修平がさらに尋ねると、陽一はようやく彼の方を向いた。「何が言いたいですか?」「いや、大したことじゃありません。ただ......速水さんと藤堂さんが離婚されたのは本当に残念だと思いまして」「彼女、とても魅力的ですからね」修平はそう言いながら、再び視線をなつみに向けた。その時、藤堂なつみと翔太のダンスはすでに半ばを過ぎていた。二人の動きは親密とは言えないが、息の合ったステップは人目を引いた。「なんだ、彼女のことがお好きですか?」陽一も修平の視線を追いながら問い返した。「こんな魅力的な女性を好きにならない男はいないでしょうね」「そうですか。でも俺の耳に入ったところでは、西川さんは先日の事故の後、体の一部に少々不自由があるとか。そんな状態で、果たして誰かを幸せにできるのでしょうか」その言葉に修平の表情から笑みが消え、首筋には青筋が浮き上がったようだった。

  • 揺らめく陽炎   第92話

    「6時の方向に立っている人、見える?」西川修平が尋ねた。ダンスのステップのせいで、二人の体は自然と近づいていた。なつみは久しぶりにこんな場を楽しんでおり、呼吸が少し乱れていた。仮面の下では鼻先にうっすらと汗が浮かんでいる。修平に問われ、なつみはすぐにその方向を見た。「ええ、見えました。それで?」「あれは朝海グループの御曹司、葉山翔太だよ。彼、君にずっと注目している。後で僕が紹介するから、少し踊ってくれないか?」なつみは軽く笑い、「どうして私がそんなことしなきゃいけないの?」と答えた。「最近、彼の父親と取引を進めているんだ」 修平は隠すことなく話した。「今回君が僕を手伝ってくれれば、著作権の件で君を直接製作側の出資者として入れることができるよ。もしドラマが大ヒットしたら、君の分配金もかなりのものになるよ」なつみはまだ笑っていて、その提案には特に興味を示さない様子だった。修平は彼女の反応に驚きはせず、続けて言った。「もちろん、お金が君にとってそれほど魅力的ではないかもしれない。でもこれは、君自身の強みや価値を示すチャンスだと思わない?」なつみは修平の言葉に反論しなかった。真剣に数秒考えた後、彼女は尋ねた。「私に手伝ってほしいのは、彼とダンスを一曲踊ることだけ?」「もちろんそれだけじゃないよ」修平は笑った。「朝海グループは今注目されていて、今夜のパーティーで葉山さんに近づきたいと考えている人は少なくないからね。もし君が彼とダンスをする時間を得られたら、私のために少し良いことを言ってくれるかな?」「私たちは知り合いではないし、私が何か言ったところで彼が聞き入れてくれるとは思えません」「うん、それからついでに、彼のお父さんと私が二人きりで食事ができるかどうかも聞いてみて」修平は自然に自分の要求を口にした。そして、彼の言葉は、食事の約束を取り付けることができた場合にのみ、先ほどの取引が成立することを直接伝えていた。なつみは少し考え込んだ後、「いいわ」と頷いた。修平は満足そうに微笑んだ。その時、二人のダンスも終盤に差し掛かっていた。なつみは修平の手を離し、一人で数回大きく回転した後、美しいフィニッシュポーズで締めくくった。会場には拍手が響き渡った。修平は笑顔

コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status