修の記憶を辿っても、若子が「愛していない」と明言したことは一度もなかった。もっと言えば、「愛している」とも一度も口にしていない。それが、修にとっての謎だった。彼女は本当に愛していないのか、それとも彼の想像に過ぎないのか。彼女との結婚生活が不幸だと勝手に思い込んでしまったのではないか。若子は胸の奥に酸味がこみ上げるような感覚を抱き、修を見上げた。唇の端を上げ、皮肉げな笑みを浮かべる。 「何がしたいの?今さら私にこんなこと聞いて、何を求めてるの?」「お前の本当の気持ちを知りたい。それだけだ」 修は彼女の耳の両脇に手を置き、彼女を自分の腕の中に閉じ込めるように囲んだ。そして彼女に顔を近づけながら低く言う。彼は若子よりずっと背が高く、話しかけるときに自然と顔を少し下げて、彼女との距離を詰める。「だから、今教えてくれ。お前の俺に対する本当の気持ちは何だ?正直な答えが聞きたい」若子は答えない。ただ、沈黙が二人の間に降り注ぐ。修は、若子が考えていることが分からなかった。若子もまた、修の考えが全くわからなかった。彼らはお互いの心の内を理解していない。いや、理解できないと言ったほうが正しいかもしれない。 しかし同時に、二人の間には何かを今すぐにでも打ち破らなければならないという緊張感が漂っていた。それでも、その「何か」を打ち破ることを恐れている。そんな曖昧な状態が続き、次第に誤解が重なっていくばかりだった。「真実を聞きたいの?」若子が静かに問いかける。「もし本当のことを言えば、何かが変わるの?」「言わなければ何も変わらないだろう」修は眉間にシワを寄せたまま、言葉を続ける。「若子、お前は俺に隠し事が多すぎる。もう全部話せ。本当の気持ちでも、俺に隠してきたことでも、全部だ」修自身、若子に関する大事なことを知るタイミングが、いつも自分だけ最後だという現実が悔しかった。それどころか、外野のはずの西也ですら、自分よりも多くのことを知っているのだ。若子は目を伏せ、軽くため息をついた。この男は、自分の本心を知りたがるくせに、決して自分からリスクを冒そうとしない。離婚した後になってから、自分の気持ちを問いただすなんて、滑稽だとしか思えなかった。「いいわ。全部話してあげる。でも、ひとつ条件がある」「条件?」修は、若子を見つめたまま問い
修の両手が彼女の肩を掴む力が徐々に緩み、やがてそっと離れた。「本気で俺に彼女との縁を切らせたいのか?」「それは私が望んでいるかどうかじゃない。ただの条件よ。できるかどうかはあなた次第」彼女の冷静な口調の裏には、自分でも気付かぬほどの揺れが潜んでいる。修がこの条件を飲むとは思えなかった。むしろ、彼の口を封じるために提案したに過ぎない。彼に真実を話して何になる?どうせまた雅子のもとに戻るのだろう。その未来を想像するだけで、若子の胸は鋭く痛んだ。せめて、自分だけが抱えている秘密を最後の砦にしておきたかった。修は伏せたままの目をゆっくりと上げ、目の前の若子をじっと見つめる。その深い眼差しが、彼女の心をかき乱す。 「もし......俺が本当に彼女と縁を切ったら」 修の唇が若子の頬に近づき、熱を帯びた彼の息遣いが彼女の肌をかすめる。 「お前は、俺とやり直すか?」若子の手が無意識に服の裾をぎゅっと握りしめる。彼の吐息の近さに、全身が強張った。彼女はなんとか冷静を装いながら、顔を横に向けて修の視線を避ける。「修、もうやめて」 彼女の声は微かに震えていた。「そんな意味のない質問を繰り返さないで」「どうして意味がないと言える?」修はまっすぐに言い返す。「お前の条件は、俺が雅子と縁を切ることだろ?だったら聞かせてくれ。もし俺がそれを飲んだら、お前は俺と復縁するのか?」修の真剣な声が響くたびに、若子の胸が締め付けられる。彼の真剣さに圧倒され、若子は思わず修を見つめ返した。一体、どういうつもりなの―?彼女が最初に予想していたのは、この条件が修に即座に拒絶されることだった。雅子を手放すなんて、修が考えるわけがない。それどころか、一瞬も迷わずに却下するだろうと。だが、目の前の修の様子は違った。彼は本当にこの条件について考えているようだった。―この人、何を考えているの?若子の心は混乱した。修は本当に自分との復縁を望んでいるのか、それともこれはただの皮肉なのか。若子は唇を噛み締めて、感情を抑えながら口を開く。 「私が聞いた質問、まだ答えてないよね。それなのに今度は私に問い返してくる。こんなふうにぐるぐる回ってばかりで、何一つ答えが出ない。だったら、もう何も言わなくていいから、ここから出して」彼女は修を力いっぱい押した。しかし、修
若子は静かに修を見つめた。この男は、まだ彼女に何を言わせようとしているのだろう?怒りを爆発させて、彼を罵倒し、感情をぶつける姿を期待しているのか?愛していない女性に発狂させることで、男としての優越感を得ようとしているのだろうか?修は壁に置いていた両手を静かに下ろし、一歩後ろに下がった。二人の間には微妙な距離ができ、彼の目には何とも言えない暗い影が宿る。低い声で、彼は口を開いた。「言いたくないことがあるなら、そのまま墓場まで持っていけばいい。お前の言う通り、聞いたところで、結果は変わらないんだろうから」若子の拳が自然と固くなった。心の奥から怒りが沸き上がり、彼女は歯を食いしばった。この男は、まるで彼女を弄ぶように振る舞う。彼の思うままに感情をかき回され、放り出され、そしてまた突き落とされる。彼の無邪気を装った仕草や無関心な態度が、彼女の心をこれでもかと傷つける。それが藤沢修だ。それが彼女が何年も愛し続けてきた男だ。若子の手が勢いよく振り上がり、そして大きな音と共に修の頬を打った。 パシン!音が響いた瞬間、修の顔に痺れるような感覚が広がる。手で軽く頬を押さえ、彼は無表情で若子を見返した。まるで、何事もなかったかのように静かだ。若子の手のひらは痺れ、痛みが走った。まるで心の中の怒りがそのまま掌に宿ったかのように、痛みが収まらない。彼女はその場で叫び出し、修に飛びかかってしまいたい衝動に駆られた。だが、彼女はその感情をぐっと飲み込み、勢いよく洗面所のドアを開けて外へ出た。これ以上ここにいたら、本当に何もかも失いそうだった。彼女のプライドも、最後の一片の理性も。若子はレストランへ戻った。顔には平然とした表情を保ち、何事もなかったかのように振る舞う。だが、心の中ではここに留まることすら苦痛に感じていた。若子は意を決して、光莉の元へ向かい、静かに声をかけた。「お母さん」光莉は若子の顔色が少し青ざめているのに気づいた。先ほど入って行った時と明らかに様子が違う。「どうしたの?」「先に帰りたいです」若子は小声で答えた。「今帰るって?」光莉は驚いたように言った。「まだ食事も終わってないのに」「お母さんはここで食事を続けてください。私は一人で帰ります」若子の声にはいつも以上に強い意志が感じられた。彼女は一刻
修が黙って若子を見つめ続けているのに気づいた光莉は、すっかり苛立っていた。その目には容赦のない光が宿り、厳しい声で怒鳴った。 「何でもいいから早く言いなさい!」本当に、もうイライラする!一方、曜はビクリと体を震わせた。驚いたように光莉を見つめた後、その目にはなぜか感激の色が浮かぶ。まるで憧れのスターを目の前にしたかのようだ。―かっこいい......なんて堂々としてるんだ......内心では彼女に完全に支配され、遊ばれてみたいという邪な欲望が膨らむ。スーツ姿で一見厳格そうな曜だったが、その胸の奥には、こんな低俗でひねくれた思いが潜んでいるとは、誰も思いもしなかった。人間も動物である以上、社会的な道徳や規律があっても、ときには原始的な本能が顔を出す。たとえば、ムチで誰かを打ちたいとか、逆に、誰かに打たれてみたいとか。若子はそんな曜の内心など知るよしもなく、修と光莉を見比べていた。 どうやらこの二人、もう特に関係を深めるための努力を必要としていないらしい。光莉が修を叱りつける様子は、どこからどう見ても普通の母親そのものだった。そこに疎遠さや後ろめたさは感じられない。修もまた、母親に責められてもまったく怒る気配はない。彼はわずかに視線を落とし、長い睫毛が陰を作る。沈んだ表情で口を開いた。 「三日以内に、俺は雅子と結婚する。今、ドレスをオーダーして結婚式の準備を進めている。式には皆に来てもらいたい。もちろん、若子は来なくてもいい。ただ、もし来るならちょうどいい。雅子には付き添いの人が必要だからな」場の空気が一瞬にして凍りついた。重苦しい沈黙が押し寄せ、息苦しささえ感じるほどだった。若子はふいに頭がクラクラしてきた。修が何を言おうと、もう彼女には関係ないはずだった。意識しないようにしなければならないのに、彼の口から出る一言一言が、彼女の心を深く抉る。それは、いつもそうだった。修の言葉を聞き、若子は信じられない気持ちでいっぱいだった。付添人が必要だから、前妻にその役を頼む―これほどの言葉をよくも口にできたものだ。どこまで自分勝手で、どれだけ人の気持ちを踏みにじれるのか。若子は表情すら作れず、呆然としていた。その場で何かを言うこともできず、ただ無力感に苛まれるばかりだった。「お前、正気か?」曜が突然テーブル
光莉はテーブルに両手をつき、十指を組み合わせたまま、柔らかい口調で話し始めた。しかし、その静かな声色とは裏腹に、目の奥には鋭い光が宿っている。「本当に揉め事を避けたいなら、密かに結婚するべきよ。堂々と私たちを式に招待しておいて、前妻に付添人を頼むなんて、あまりにも筋が通らないわ」彼女は元々それほど穏やかな性格ではない。けれど、今の彼女は妙におだやかで、修に対してとても忍耐強く話している。だが、時に海面が静かに見えても、その深海には暗流が渦巻いているものだ。「付添人を引き受けるかどうかは、本人の選択だ。強制はしていない」修の冷淡な返答に、若子は拳をぎゅっと握りしめた。この場にいること自体が耐え難くなり、深く息をついて立ち上がった。「お母さん、すみませんが、私は先に帰ります」光莉は振り返り、彼女に静かに命じた。 「待ちなさい。後で一緒に帰るから」「でも......」「座って」 彼女の指が隣の椅子を示した。若子は眉をひそめた。「座って」彼女はさらに強調して言った。光莉の毅然とした態度を前に、若子は深くため息をついて座り直した。気持ちを落ち着けるため、若子はポケットからスマホを取り出し、西也からの返信を確認した。「若子、時間を作って会いたい」彼女はすぐに返事を打ち込んだ。 「今から私の家に行って。すぐに帰るから、直接暗証番号を入力して入って」返信を送ったものの、西也からはすぐに応答がなく、おそらく忙しいのだろうと思い直した。その時、光莉の冷たい声が耳に飛び込んできた。「修、一つ提案があるわ。私もあなたのお父さんも、藤沢家の誰も桜井のことを認めない。それどころか、外では彼女を公然と『浮気相手』と呼び続けるわ。もちろん、式にも出席して、そこで彼女をぶったたいて、『泥棒猫』だと罵倒してやるのもいいわね。そうすれば彼女もその場でぶっ倒れるんじゃないかしら?」修は眉をひそめ、声を落としながら尋ねた。 「お母さん、本当にそこまで極端なことをしないといけないのか?」光莉はその問いに微笑み、まるで軽くあしらうように返した。「極端?ただ、あなたに『選択肢』を与えているだけよ」その言い方に、修の顔はさらに険しくなった。先ほど彼が言った「選択」という言葉を、光莉はまるで鏡のようにそのまま突き返していた。彼女はこれまで
「昔から母親としての責任を果たしてこなかったことを、ずっと悔いてきたわ。だから、あんたを叱る資格なんてないと思ってる。 でも、今のこの一発は、母親としてではなく若子の母親として―私の娘を守るために打ったものよ」その言葉に若子は目を見開き、鼻がつんとした。胸が温かくなるような、しかし切ない感情が込み上げてきた。 血の繋がりなど一切ないはずの光莉。 その彼女が自分のためにここまで動き、守ろうとしてくれている―それが若子には信じられないほど嬉しかった。自分の愛や結婚がこんなにも惨めに失敗してしまった中で、それでも光莉のような人がそばにいる。 不幸の中にも、小さな幸せがあることを若子は感じていた。一方で、修は唇をわずかに引き上げて、冷笑を浮かべた。 「へえ、なるほどね。さすが母娘、息ピッタリだ。一人ずつ交代で俺に平手打ちか。気分はどう?スッキリした?」その皮肉じみた言葉に光莉の目は細くなり、声が一段と鋭くなった。 「あんた、なんでこんなにまで酷い人間になれたの?」修は肩をすくめながら、ゆっくりと光莉の方へ顔を寄せた。「違うよ、母さん。俺は元々こんな人間さ。ただ、あんたたちがそれに気づかなかっただけだ」その言葉とともに、修は唇をわずかに歪めた。勝者のような笑みだった。「とにかく、雅子との結婚は決まってる。誰もそれを止めることはできない。出席するかしないかはあんたたち次第だ。俺の婚礼は予定通り行われる。それだけの話だ」その冷たい口調は、部屋全体の空気を凍らせた。沈黙が押し寄せ、重苦しい緊張が場を支配する。つまり、彼の目的は、両親を全員呼びつけて、しかも若子が来ることを分かっていながら、こんな場でこんなことを言うのだ。両親を怒らせただけじゃなく、前妻まで侮辱するのだ。光莉は呆然と後退りし、彼に絶望の眼差しを向けた。「やっと機会を作ったってのに、こんな仕打ちをするのね」光莉の声は低く震えていた。「もういい。次のチャンスはないわ。もうあんたのために何かしてあげようなんて思わない」修は一瞬たりとも動揺する素振りを見せず、冷たく言い放つ。「俺にはチャンスも助けも必要ない」「そう?じゃあ、お酒を飲んで酔っぱらったときに言ったこと、全部忘れたの?」その言葉には、明らかに失望と苛立ちが込められていた。あの時、彼は酒に酔って、まるで哀れな子
時間は8時間前にさかのぼる。午前10時。修はまだ光莉の家でソファに横になり、重たい眠りの中にいた。ゆっくりと目を開けると、頭が割れるような痛みに襲われる。毛布が体にぐるぐる巻きにされており、解けないように紐で固定されているのに気づいた。「何だこれ......」修は困惑しながら自分の体を見下ろし、周囲の様子を確認する。見知らぬリビングだったが、ここが光莉の家だとすぐに分かった。前夜の記憶が波のように押し寄せてくる。彼は酔った勢いで夜中に母親を訪ね、まるで幼い子供のように泣きついていた―自分は傷つけられたと愚痴をこぼし、母親に慰めを求めていたのだ。修は自分の額を叩き、顔を覆うようにして呻く。「最悪だ……」毛布と紐を解き捨てると、そのまま浴室へふらふらと向かった。顔を洗い、口をゆすぎ、少しだけ頭がすっきりしたところで、携帯を探し始めた。ソファの端に落ちていた携帯を拾い上げ、画面を点けると、いくつもの着信履歴が病院から残されているのに気づいた。多分、あまりにも深く眠っていたせいで、着信音を聞こえなかった。彼は不吉な予感に襲われながらも、すぐに掛け直した。「もしもし?どうしました?」電話の向こうから話が伝えられると、修の表情はみるみるうちに変わる。「…なんだって?分かった。すぐ行く」修はその場を飛び出し、急いで病院に向かった。雅子の容態が急変していた。夜中に感染症を起こし、白血球の異常増加が確認された。医師たちが何とか白血球の数値を抑えたものの、彼女の内臓機能は急速に悪化しているという。感染の原因は今のところ特定できていなかった。これまで適切な看護が続けば、雅子は心臓移植を待つ時間があると言われていた。だが、今や彼女の体調は急速に悪化し、1週間以内に手術を行わなければ命が危ないと医師たちは告げた。雅子の名前は移植リストの最優先に登録されているが、適合する心臓は依然見つかっていなかった。修はこれまで、まだ時間があると思っていた。しかし、今彼の目の前にあるのは、避けられない現実だ。雅子は病室のベッドに横たわり、見るからに衰弱していた。修がベッドのそばに立つと、彼女は力なく顔を横に向け、目を逸らした。修はベッドの脇に腰を下ろし、静かに声をかけた。 「雅子、ごめん。この数日忙しくて、来られなか
修は光莉との通話を切る前に反論しようとしたが、ふと何かを思い出したように雅子を一瞥し、目に一瞬の迷いを見せた後、「分かった、今夜会う」と冷静に答えた。光莉は少し間を置き、「それでいいわ。忘れないで。昨夜酔っ払って言ったこと、ちゃんと考えて。私はあんたのために言ってるのよ。これ以上取り返しのつかない間違いをしないでね」と念を押し、電話を切る準備をしていた。彼女は内心で呟いた。「もし彼が私の息子じゃなかったら、何も言わずに放っておく。でも親だから、教えなきゃいけないのよ。馬鹿なままではいけないって」その直前に修が口を開いた。 「そうだ、母さん。昨夜、俺の携帯から雅子にあんなメッセージを送るべきじゃなかった」人のスマホを勝手に使うべきじゃないと分かっていたが、光莉は一瞬も躊躇せずに答えた。 「送ったわ。それがどうしたの?」修は深く息を吐き出し、疲れたように言った。「あのメッセージには意味がないよ、母さん」「意味がないって分かってるなら、わざわざ聞かないことね」「ただ、雅子に知らせたかったんだ。あれは俺が送ったものじゃないって。俺はそんな内容を送るはずがない」「じゃあ、何を送るつもりだったの?愛の告白でも?」修は短く「母さん、もういい。説明したから。今は雅子に付き添わなきゃいけない」と言い、通話を切った。彼はこれ以上話を続けると雅子が不機嫌になることを恐れていた。彼女の身体はこれ以上のストレスに耐えられる状態ではなかったからだ。電話を切ると、彼はすぐに携帯の設定を開き、雅子の番号がブロックされているのを確認して解除した。修は雅子の方を向き、落ち着いた声で言った。「雅子、聞いてたと思うけど、あのメッセージは俺が送ったものじゃない。母さんが勝手に送ったんだ。もう彼女にはっきり伝えたから」雅子は少し安心したように見えたが、昨夜修が酔った勢いで若子に電話をかけようとしたことを思い出すと、顔に影が落ちた。「でも、今夜彼女に会うって言ったわよね?元妻とまた会うつもりなんでしょ。どうせ私なんてどうでもいいんでしょ。それならもういっそ、この管を全部抜いて、私を楽にしてよ!」「俺はお前と結婚するよ」雅子が戸惑い、動揺している間に、修は決意に満ちた声で続けた。 「今日から結婚式の準備を始める」修は電話を取り出し、短く指示を出した。
「どうしてそんなことを言うんですか?出かける前に二人、喧嘩でもしたんですか?」 ノラは不思議そうに尋ねた。若子は小さくため息をつきながら答えた。「まあ、そんな感じだったわ。もっとお互い冷静に話していればよかったのに......私のせいで西也がこんなことになった気がしてならないの」「お姉さん、自分を責めないでください」 ノラはその場にしゃがみ込み、優しく彼女を見上げた。「そんなの、お姉さんのせいじゃありませんよ。旦那さんをこんな目に遭わせたのは、悪いことをした奴の責任です」若子はかすかに苦笑いを浮かべた。「それでも、心が苦しいの。もしもう一度やり直せるなら、絶対に引き止めてみせる。彼が家を出ないように、何だってしたのに......」ノラは彼女の肩に手を置いて軽く叩いた。「お姉さん、そんなに自分を追い詰めないでください。世の中には、どれだけ頑張ってもコントロールできないことがあるんです。お姉さんだって、こんなこと望んでなかったでしょ?」なんてお人好しなんだろう―ノラは心の中で嘲笑を浮かべた。彼が狙いをつけていた西也が、もしこの世に若子なんていないとしても、結局は同じ目に遭っていただろう。だって、彼の臓器はとても「使える」のだから。計算外だったのは、西也がここまで持ちこたえたことだ。彼はもっと早く病院で息絶えるはずだった。それにしても、ノラが自信を持って設計したプランが外れたのは、これが初めてだった。自分がいつ、誰を、どんな方法で死なせるか―それが狂ったことなんて一度もなかった。でもこの西也だけは、ノラの計画を台無しにした不服従者だった。若子は西也の手を取り、そっと自分の頬に当てた。「もし......もしも西也がこのままいなくなったら、私は一生、自分を許せないわ」ノラはその言葉に少し驚いた。彼女と西也は形だけの結婚だと聞いていた。単なる友人同士で、そこまで彼に執着する理由があるとは思えない。しかも西也のために、修を警察に送ったなんて。なんで自分の思った通りにならないんだ?彼女は盲目的に修を愛しているはずじゃなかったのか?思っていた話と全然違う。なんて面倒で、不愉快な感情なんだろう―ノラは心の中で舌打ちをした。感情なんてものは、複雑で吐き気がする。やはり冷たく無感情でいる方が、よほど美しい。でも..
「おじさん、若子のこと、そんなに気になりますか?」花は軽い口調で尋ねた。最初から、おじさんが若子を見る目にはどこか違和感があったからだ。その違和感は決して悪意ではない。ただ、長年会っていなかった知り合いを見た時のような、不思議な感覚だった。成之は少しムッとした顔をして、わざと不機嫌そうに言った。「どうしていけないのか?ちょっと聞くくらいも許されないのか?今度はお前の夫のことも聞いちゃいけないのか?せっかく可愛がってやったのに、恩知らずだな」「そんなことないですって!」花は慌てて言った。「おじさんが聞きたいなら、話しますよ。どこか座れるところでゆっくり話しましょう」そう言うと、花は成之の腕を引いて歩き出した。......若子は病室でベッドに突っ伏し、悲しげな目で西也を見つめていた。「西也......私の声、聞こえる?本当にお願い。どうか目を覚まして。奇跡を見せてくれない?」 彼女は涙をこらえながら続けた。「あなたが目を覚ましてくれるなら、私、何だってするから。もう二度とあなたを怒らせたりしない」「西也、修とのことはきっぱり終わらせたよ。ちゃんと断ったから......もう怒らないで。だから、お願い。早く目を覚まして......」その時、病室のドアの方から声が聞こえた。「おい、何してる?中に入っちゃダメだ!」「僕はお姉さんを探してるんです。僕、彼女を知ってます!」「お姉さんだって?ここにそんな人はいないよ。さっさと帰れ!」若子は涙を拭いながら身体を起こし、ドアの方を振り返った。ボディーガードが誰かを止めている。それはノラだった。「ノラ?どうしてここに?」「お姉さん!」 ノラは手を振りながら言った。「警察での調書が終わったから、解放されたんだ」若子はボディーガードに向き直り、「この子を通して。知り合いだから」と言った。若奥様の指示とあって、ボディーガードたちは渋々ノラを通し、彼は病室に入ってきた。「お姉さん、警察から聞いたよ。旦那さんがこんな状態なのは襲撃されたからだって」その言葉に若子の胸が締め付けられる。一度その話題が出るだけで、心が痛み、自然と涙がこぼれ落ちた。「お姉さん、泣かないでくださいよ!泣かれると僕、どうしていいか分からなくなります!」若子は涙を拭きながら、無理に微笑んでみ
成之の視線は再び若子に向けられた。彼女の様子を見るだけで、相当なプレッシャーに耐えていることが伝わってきた。「心配するな。俺がいる限り、誰もお前たちを傷つけたりはしない」 成之は落ち着いた声で言った。「それから、腕の立つ医師たちを呼んで、西也の診断をしてもらうことにした。彼らがどう判断するか見てみよう」若子は目の前の男性をじっと見つめた。どこか懐かしいような、それでいて全く知らないような感覚があった。 ただ一つ言えるのは、彼の存在感は圧倒的だった。威厳に満ちた立ち姿と、警察官が彼に対して敬意を払っていた様子から、彼がただの人間ではないことは明らかだった。「若子......だったな?」成之は優しく彼女を見て言った。彼がここに来る前、花が電話で全てを説明していた。若子は小さく頷いた。「ええ」「西也の件については、必ず徹底的に調査させる。こんなことが無駄に起きるのは許さない」 彼の声は冷静で、時には冷たさすら感じさせるものだった。「お前は今、彼の妻だ。法的にも医療の決定権を持つ立場にある。今、どうするつもりだ?」若子は成之の冷静さに驚きながらも、その態度に頼もしさを感じていた。彼は何があっても動じず、感情に流されない。まさに大局を見据える人間だった。彼のような人の前で焦っても意味がない。若子は深呼吸をして、しっかりとした声で答えた。 「希望がどれだけ薄くても、私は西也を諦めたくありません。それに、さっきおっしゃったように、他の医師たちの診断も聞いてみたいです」成之は満足げに頷いた。「よし。じゃあ、一緒に結果を待とう」......成之が手配した医師たちは、病院の会議室で西也の症例を詳細に検討していた。それにはしばらく時間がかかりそうだった。若子にできることといえば、ただ忍耐強く待つことだけだった。その間、病院の院長が若子を訪ねてきた。家族による臓器提供の圧力について、謝罪を述べるためだった。「院内で患者や家族の情報が漏洩することはありません。我々もどうして彼らがここまで押しかけてきたのか分かりません」と院長は説明した。だが、若子はその言葉を全く信用していなかった。修が彼女を見つけ出せたのも、病院の医師が何らかの情報を漏らしたからではないのか?内々で何かを漏らしているかどうかは、彼ら自身にしか分からないことだ
「なんてこと言うの!君の兄さんが亡くなったら、その臓器を誰も助けずに灰にして埋めるつもりか?あんたたち一家はどれだけ意地悪なんだ!それに、どうして女だけなんだよ?親はどこだ?もっと話が分かる男を連れてこい!女なんて、視野が狭くて大事な話ができるわけない!」花は怒りを抑えきれず、声を荒げた。「あんたたち、本当にどうしようもない!誰が医療の決定権を持っているかも分かってないくせに。言っておくけど、仮に両親がここにいたとしても、絶対に同意なんてしないわ!」「なんだと?誰が『どうしようもない』だって?そんなの、あんたたちの方でしょ!」「女二人がキーキー騒いでるだけで、大事なことなんて分かるわけがない!」周囲から次々と非難の声が飛び交い、若子の頭は割れそうなほど痛み始めた。額には汗が滲み、胸の奥で渦巻く感情が溢れ出しそうになる。それは抑えきれないほど膨れ上がるマグマのようだった。「全員、黙りなさい!」若子は突然、叫び声を上げた。その場は一瞬で静まり返り、全員の視線が若子に集中した。若子は肩で息をしながら、隣の花に振り向いて言った。「警察を呼んで。これ以上の嫌がらせは許さない。それから弁護士にも連絡して、この病院が私たちの情報を漏らした責任を追及するの」その時、背後から冷たい男性の声が聞こえた。「警察なら、もう来ている」花はその声に気づき、顔を輝かせた。「おじさん!」彼は冷ややかな視線を群衆に向けると、警察官たちに向かって言った。「見ての通り、私の家族に対する深刻な嫌がらせだ。どう処理するか、君たちに任せる」警察官は庄に敬意を込めて頷きながら答えた。「村崎さん、法に則って適切に対応します」すぐに警察官たちは前に進み、若子と花を取り囲んでいた人々を一斉に拘束した。彼らがどれだけ抵抗し、叫んでも無駄だった。警察官たちは淡々と彼らを連行していく。ようやく、その場は静けさを取り戻した。「おじさん!」花は駆け寄ると、成之に抱きついた。「帰ってきてくれたんだね!」花は成之に早く知らせようと電話をかけていたが、彼は街を離れていたためすぐには駆けつけられなかった。それでも知らせを受けた彼は、急いで戻り、最悪の事態に備えて警察を連れてきていた。そして、その予感は的中した。成之は優しく花の肩を叩きながら言った。「大丈夫
「奥さん、うちの息子はまだ10歳なんです。今すぐ腎臓移植を受けなければならない状態で、腎臓はもう機能していません。長い間透析を受けて、小さい体で苦しむなんて本当にかわいそうです。どうか、どうかこの子を助けてやってください。お願いします、同意書にサインしてください!」「そうです、奥さん。うちの夫は家族を支える柱なんです。彼が病気になったら、私たち一家が崩れてしまいます!」いつの間にか、大勢の人たちが若子を取り囲んでいた。彼らは全員患者の家族らしく、一見悲しみに暮れているように見えたが、その実、押しつけがましい雰囲気に満ちていた。彼らは若子を取り囲み、次々と言葉を浴びせてくる。それはまさに情緒的な脅迫の極みだった。「どいて!道を開けて!」 若子は逃げ出そうとするが、彼らに完全に囲まれ身動きが取れない。「奥さん、気持ちを考えてみてください。もしあなたの立場だったら、きっと私たちと同じように必死になるはずです」「そうです。うちの子はまだ10歳です。これから素晴らしい人生が待っているのに、ご主人はもう無理なんですから」「奥さん、どうかお願いします。同意してください。ご主人がいれば、多くの人が救われるんです」「たくさんの命が彼を待っているんです。早くサインしてくださいよ。うちの子がもう待てないんです!」若子の頭はズキズキと痛み、限界を超えそうだった。「もういい!やめて!あなたたち、私を探すべきじゃないわ。誰が私がドナー側の家族だと教えたの?誰が言ったの?」彼らは顔を見合わせたが、誰一人として若子の問いに答えようとはしなかった。「誰が言ったかなんて関係ありません。重要なのは、あなたの主人がもう無理だってことです。こんな『生きる屍』を守り続けてどうするんです?あなたはまだ若いんだから、彼が亡くなった後、新しい人生を始めればいいだけじゃないですか」「そうそう、意地を張ることないのよ。うちの子はまだ10歳なんですよ。本当にかわいそうで......お願いだから慈悲を持ってください。サインしてくれたら、手術が受けられて、うちの子が元気になったら、ご主人のお墓にお花を持って行きますから!」「黙れ!もう何も言わないで!」 若子は怒りを爆発させた。「これ以上私に付きまとわないで。どいて!私を通して!」「なんて冷たい女なの!」 ある中年の
病院の休憩エリアで、花は若子を連れて静かな席を見つけ、座らせた。若子は憂鬱な表情を浮かべ、その目は曇り空のように暗かった。花は隣に座り、そっと若子の肩に手を置いた。「若子、何があっても覚えておいて。お兄ちゃんはきっと、あなたに元気でいてほしいと願ってるわ」「花......あなたはもう、最悪の結果を覚悟してるの?」花は小さくため息をついた。「時には、現実を受け入れなきゃいけないこともあるのよ」「もしそう思うなら、西也を他の人を助けるために使うべきなのかしら......?」若子は声を震わせながら言った。微かな希望を信じたいと思いながらも、心の奥ではその希望がほぼゼロに近いことを理解していた。花は首を振った。「私も分からない。私があなたの立場だったら、やっぱりすごく悩むと思う。お兄ちゃんに目を覚ましてほしいけど、今のあの様子を見ると......」「花......私は奇跡を信じたい。でも本当は、あなたのご両親がいてくれたら良かったのにって思うわ。だって、私と西也の結婚は本当のものじゃないから。私がこんな大事な決断をするなんて、西也にとって不公平だわ」「若子、そんなふうに考えないで」 花は若子の手をしっかりと握り、優しく言った。「たとえ事情がどうであれ、あなたたちはちゃんと婚姻届を出してる。法律上、あなたは彼の妻よ。しかも両親が今ここにいない以上、決めるのはあなただけなの。それに、あなたはずっとお兄ちゃんを守り抜いてきた。他人の言葉に流されず、よくやってるわ」「でも、あなたも彼の妹でしょ?」若子はポツリと言った。「もちろん私は妹よ。でも、私は優先順位が後なの。あなたは彼の妻。主要な決定権を持つのはあなたよ。たとえ私が同意しても、あなたが反対したらそれで終わりだし、逆にあなたが同意しても私が反対しても無意味なの」若子は沈黙した後、小さく呟く。「もし、私もあなたのご両親もいない状況で、あなたが決めなきゃいけないとしたら......どうするの?」花は困ったようにため息をつく。「それは考えても仕方がないわ。今はただ待つしかない。そうするしかないの」そう言って立ち上がると、花は続けた。「少しここで待ってて。何か食べ物を取ってくるわ」「いいわ、私はお腹なんて空いてないから」花は優しく微笑みながら言った。「若子が食べなくても、お腹
修は雷に打たれたように立ち尽くした。「お前、彼が今こんな状態になったのが、俺のせいだと思っているのか?」「それは調査中よ。調べないと誰がやったか分からないでしょう?人の顔をした獣みたいな人だっているんだから」最後の一言を、若子は強く噛みしめるように言った。修の頭の中は一瞬にして燃え上がり、灰になったようだった。警官の視線が修に向けられる。彼の顔や手に残る傷跡は、確かに誰かと争った痕跡のように見える。若子の手は震えていた。彼女だってこんなことはしたくなかった。修がこんな恐ろしいことをする人間だとは思いたくない―でも、今の彼を信じられない自分がいる。さらに修がこの場に留まれば、彼女に同意書へのサインを迫るだろう。それを防ぐためにも、彼がここを離れるのが最善だと感じていた。「彼は私の元夫です。主人としょっちゅう揉めて、二人はこれまで何度も殴り合いの喧嘩をしています。昨日も彼が急に復縁を求めてきて、私が断ったら、ひどく感情的になって......その時、主人が来て、私を守るために彼と衝突したんです」「若子、お前、そこまでして俺を貶める気か?」修は拳を固く握りしめ、声を震わせた。「私は一言たりとも事実を歪めていないわ。全て本当のことよ」彼女には後ろめたさはなかった。西也がこんな状態になってしまった以上、誰もが疑われるべきだ。若子の言葉は真実だし、それに彼女は修が昨日彼女にしたことについては敢えて伏せていた。彼を守ろうという気持ちすら、まだ心のどこかにあったのだ。もし修が調査の結果、西也に危害を加えていないと分かれば、それで良い。だが、もし本当に彼が原因だとしたら―彼女は絶対に彼を庇わない。「それからもう一つ」若子は続けた。「彼はたった今、私の友人にも暴力を振るいました」若子はノラを警官の前に押し出す。「彼がこの子を殴った」修は冷笑を浮かべた。彼女はなんて冷たいんだろう。「藤沢さん、警察署まで同行していただきます。調査にご協力をお願いします」修は若子を冷たく見つめた。その瞳には失望の色が滲んでいる。彼は深く息を吸い、感情を抑え込むようにしてから答えた。「分かった。弁護士に連絡させてもらう」修はスマホを取り出し、弁護士に電話をかけて自分の状況を説明した。そして、通話を終えると、警官たちに付き従ってその場
若子とノラが寄り添う光景が、修の目に鋭く刺さる。 「触りまくってるのはどっちだ?」修は怒りに満ちた声で叫んだ。「若子、お前、そんなに男友達が多かったのか?しかもこんなに親しげに!お前って本当にうまく隠してたよな!これまでの全部が嘘だったんだな。俺を罪悪感で縛りつけてたけど、実際はお前が外で遊んでたんだろう?一体、何人いるんだ?」修は怒りのあまり、言葉を選ぶ余裕すら失っていた。その言葉は、まるで噴き出すマグマのように次々と吐き出される。「ちょっと、言いすぎですよ!」 ノラが勇気を振り絞って若子の前に立ちはだかる。「どうしてそんなひどいことをお姉さんに言えるんですか?本当に最低です!お姉さんを傷つけて泣かせて、なんでそんなに意地悪なんですか!」修は冷笑を浮かべ、さらに続ける。「若子、お前、いったいどれだけの男に慰めてもらってるんだ?俺たちのことを、いろんな男にベラベラ話してるんじゃないのか?」その嘲りの視線に、若子の心は引き裂かれるようだった。この男にとって、自分はただの軽薄な女なのだ。そう決めつけられていることが、何よりも辛い。若子はもう泣くことも、笑うこともできなかった。雅子がどんな人間か、彼は一向に見抜けなかった。自分のことになると、他の男が自分のために少し言葉をかけただけで、彼は自分がそういう人間だと思い込んでいる!「修、あなた、私を信じてるって散々言ったわよね。これがその『信じてる』の結果?信じられない。本当に笑えるわ。いや、違う。今のあなたは滑稽なんかじゃなくて、心底、気持ち悪い!」そう言い切った瞬間、若子の中に残っていた感情が崩れ去った。愛していたはずの人が、今ではただの吐き気を催す存在に変わってしまったのだ。この10年間の愛が、全て無意味だったと悟った瞬間だった。修の顔が崩れ、怒りがあらわになる。「気持ち悪いだと?若子、お前、言葉をはっきりさせろ!」修が若子の腕を掴もうとした瞬間、ノラが再び立ちはだかる。「お姉さんに触るな!あなたなんてお姉さんにふさわしくありません!だからお姉さんが他の人と結婚したんです!」「邪魔するな!」修は激情に駆られ、ノラの顔に拳を叩き込んだ。「っ!」ノラは短い悲鳴を上げ、後ろに倒れ込む。「大丈夫!?」花が驚きながら駆け寄り、ノラを抱き起こす。ノラは口元を触ると、
どうしてこんなにも都合よく事が運んでいるのだろう?西也がちょうどこのタイミングで倒れ、その心臓が雅子に必要とされ、しかも適合するなんて。もしかして......すべて修の計画だったのだろうか?ほとんどの人が医療検査を受け、そのデータはシステムに保存されている。修は雅子を救うために人脈を使い、適合者を徹底的に調べ上げた結果、西也が最適だと分かったのかもしれない。しかし、西也はまだ生きている。だから、彼はドナーにはなれない。......そのために、修はこんな恐ろしいことを?修は確かにクズだけど、そこまで悪い人間ではない。若子は修がそんな悪辣な行いをするとは思いたくなかった。それでも、状況が状況だけに、そう考えざるを得なかった。あまりにも偶然が重なりすぎている。一つの偶然なら単なる出来事。しかし、これだけの偶然が重なれば、それは計画的な仕業かもしれない。どんなに善人でも、自分の利益が絡めば悪事を働くことがある。誰にでも邪悪な一面はあるものだ。そして、雅子は修が悪事を働くための、最も都合の良い理由だった。修は若子の瞳に浮かぶ疑念を察し、不安を抱きながら問いかけた。「お前、どうしてそんな目で俺を見るんだ?」「お姉さん!」その時、元気な声が響いた。ノラがリュックを背負って駆け寄ってくる。「お姉さん、こんなところでお会いするなんて偶然ですね!何かあったんですか?」その声に若子は振り返り、目の前に立つノラを見て言った。「ノラ、どうしてここに?」「最近寝つきが悪くて、ちょっと診てもらいに来たんです。それでついでに薬をもらおうと思ったんですが......お姉さん、何かあったんですか?泣いているように見えますけど......」ノラは若子の横に立つ修に目をやると、何かを察したようだった。「お姉さん、もしかしてこの人にまたいじめられたんですか?だって、もう新しい旦那さんがいるんでしょう?その人はどこにいるんですか?」「彼は......」若子は病室に目をやり、涙を浮かべながら答えた。ノラは病室のガラス越しに中を覗き込むと、驚いて言った。「お姉さん、旦那さんに何があったんですか?」若子はついに声を上げて泣き始めた。ノラはそっと若子の背中を優しく撫でた。「お前は誰だ?」修が前に出てノラを突き飛ばす。「彼女に触るな!」